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写真1 「なつかしのサイレント映画」パンフレット、1959年10月(3つ折/大きさ:181×86mm)

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写真1 「なつかしのサイレント映画」パンフレット、1959年10月(3つ折/大きさ:181×86mm)


写真2 自主上映関西促進会特別試写会招待状、1961年10月(大きさ:139×89mm)

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写真2 自主上映関西促進会特別試写会招待状、1961年10月(大きさ:139×89mm)


写真3 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、第3号、1959年6月(大きさ:267×186mm)

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写真3 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、第3号、1959年6月(大きさ:267×186mm)


写真4 「現代の映画の会」案内状/招待券、1959年9月(大きさ:143×101mm)

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写真4 「現代の映画の会」案内状/招待券、1959年9月(大きさ:143×101mm)


写真5 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、第4号、1959年6月頃(大きさ:182×258mm)

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写真5 「記録映画を見る会」機関誌「眼」、第4号、1959年6月頃(大きさ:182×258mm)


写真6 「記録映画を見る会」例会入場整理票、1960年9月(大きさ:61×176mm)

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写真6 「記録映画を見る会」例会入場整理票、1960年9月(大きさ:61×176mm)


写真7 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、表紙(大きさ:174×174mm)

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写真7 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、表紙(大きさ:174×174mm)


写真8 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、プログラムページ(大きさ:174×174mm)

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写真8 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、プログラムページ(大きさ:174×174mm)


写真9 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、奥付ページ(大きさ:174×174mm)

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写真9 「現代芸術の会会報」、第1号、1960年12月、奥付ページ(大きさ:174×174mm)


写真10 「京都コンテンポラリーシアター」、第2回、1961年6月16日、プログラム(2つ折/大きさ:133×196mm)

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写真10 「京都コンテンポラリーシアター」、第2回、1961年6月16日、プログラム(2つ折/大きさ:133×196mm)

1 「記録映画を見る会」の後期の活動

1−1 運動の展開

『戦艦ポチョムキン』の自主上映に関しては本稿第1部でも見たように、「記録映画を見る会」はそれまで批判の対象としてきた他の団体ともいわば大同団結し、輸入や上映に関わる煩瑣で根気の要る作業を進めていった。その背景には、必要な経費の高額さや上映運動の全国への拡がり、といった従来とは異なる規模の大きさがあったであろう。『戦艦ポチョムキン』の成功は次への継続を要請したといえる。第1部で触れたように、1つの展開の方向は、1959年10月の「なつかしのサイレント映画 第二回名画観賞会 京都市民劇場」の共催(京都映画サークル協議会、京都市)であった(写真1)。この時期、「自主上映促進会」が各地に立ち上がり(後に1963年には「自主上映促進会全国協議会」となる)、『世界の河は一つの歌をうたう』(監督:ヨリス・イヴェンス)、『鳩よさようなら』(監督:ヤコブ・セルゲイ)などの作品が『戦艦ポチョムキン』に続いて巡回上映された。後述する「記録映画を見る会」の『西陣』はこの枠組みにおいても数は少ないとはいえ各地で上映された(写真2)。つまり、運動の進め方に関しては他の組織との連携、地域的には従来とは別な回路での拡大という展開がもたらされた。

しかし、当時の「記録映画を見る会」の状況の変化や、外的要因としての『戦艦ポチョムキン』の自主上映の影響は、結果的に以上とは別な姿を示す展開を促すことになった。次節以降でその点を検討したい。

なお、機関誌「眼」の発行も継続されていた。第1部で「少なくとも18号発行」と書いたのは、手許にある最後の号が18号であるという意味であり、残念ながらそれ以後は未確認である(途中の欠号も多い)。版形や用紙、ページ数など号により変化がある。重要な記事は後段で内容に応じて適切な文脈で参照したい。

浅井栄一は以前に機関誌、「眼」の発行に協力を仰いだ教育映画制作配給会社の奥商会発行の雑誌、「OKレポート 映画と教育」の編集も引受けている(*2 )。1960年6月発行の創刊号には加藤秀俊、松本俊夫、京都府立医大教員など浅井のネットワークを生かした執筆陣が寄稿している。特記すべきはその第2号に掲載された、上映に沿って実時間で記録可能な「プログラム・アナライザー」を用いて行ったある教育映画の観客(母と子ども、20人ずつ)の反応分析である。詳細は省略するが、浅井が掲載を依頼したこの調査は、とかく印象批評に陥りがちな作品批評や分析に科学的な視点と方法を導入した点に意義を認めることが出来よう(*3)。

1−2 上映作品と上映形態の多様化

これも既に本稿第1部の「3-4 多様な展開の試み」で見ておいたが、プログラム編成の問題(良い作品を発見し、上映することの困難さ)、観客の関心と主催者の意識のズレ、興行の成功/失敗といった多様な要素が関連しあい、「記録映画を見る会」は様々な試行錯誤を重ねていた。京都府立大学の「記録映画の会」との併存時にはそれとのいわば差別化が要請され、あまり一般受けのしない前衛的作品が上映された。またゼミナールと名付けた、分野を限定した会も開催された。1959年6月には「特別例会 商業主義とたたかう記録映画作家たち」が開かれ(写真3)、その後9月から始ったのが「現代の映画の会」であった(写真4)。それを「現代の映画の会」と名付けたのも、記録映画や実験映画に限らず「映画を通じて現代を考える運動」を目指すからだとしている(*4)。恐らく同様なねらいの下に、時間が前後するが1959年の8月、2週間の内の6日間に渡って日替わりの「講座 現代の眼」が開催された(写真5)。他方、亀井文夫作品集などが「日本映画ゼミナール」において上映された(1959年7月)。

1960年に入ると上述の多様な方式は主軸である記録映画を中心とした例会に一元化され、順調に行くかのように見えた。しかしそれはなお一時的であり、また表面上のことであったといわざるを得ない。つまり1960年9月の例会は、日にちにより異なる2つのプログラムを観客が選択するという形で開催されたのである(写真6)(会場はどちらも祇園会館。同館の開館は1958年3月であるが、以前のヤサカ会館に代わり、1960年後半以降の「記録映画を見る会」の催しの主会場となった。約500席と収容人数もヤサカ会館の半分)。すなわち9月5日は「A例会」として祭の映画が特集され、『東北の祭 三部作』ほかが上映された。翌日の「B例会」では、「特集・映画の未来を語る夕べ 『わからない』映画をめぐって作り手と受け手の断層を埋める試み」が開催された。各国の前衛映画の紹介とゲストのシンポジウム(和田勉、岡田英次、ほか)の後、既に前年の「現代の映画の会」で紹介されたアラン・レネの『二十四時間の情事』が上映された。講師陣はしばらく居残り、9月9日には座談会がもたれ、概要は新聞でも報道された(*5)。

だが何よりも「記録映画を見る会」で上映すべき作品とは何であるのか、という基本的な問題に関しては、上映会の方法の如何を問わず、「記録映画を見る会」は常に発足当時の姿勢を失わなかったことが重要であると思われる。たとえば、9月5日の「A例会」についてである。案内に「原始のよろこび、民族の生命力が生きている」というキャッチ・フレーズのついたこの上映会には、特別上映として安保闘争の記録、『1960年6月――安保への怒り――』(野田真吉、富沢幸夫/1960年)が併映された。なるほど祭は一般受けする題材でありその意味で観客の動員数も多くなろう。だがそれはまた、日常の生活を一時忘れさせる傾向も持つ。本論第1部で紹介した「記録映画を見る会」の創設趣意書に書かれた「わたくしたち自身の心の生活をシンのある豊かさにする」の行を思い出すべきである。問題は記録映画に留まらず、生活の問題であるという会の基本理念に揺らぎがないこと――この作品がプログラムに組み込まれていたことはそれを表明するものであったと理解出来る(*6)。

1960年後半は後段で詳述する自主制作作品、『西陣』制作の目処が立ち、準備が既に始っていた時期である。そうした中で幾分かは『西陣』のための活動との関連で、例えば演出の松本俊夫、脚本の関根弘がしばしば京都を訪れたりするなど、特に東京の組織や個人との関わりが従来以上に増してくる。領域的展開と地域的な広がりの1つの好例として、次節でどうしても東京の草月アートセンターとの連携について触れざるを得ないことになる。

1−3 現代芸術の会:草月アートセンターとの連携

1960年代のこの国の芸術動向において、草月アートセンターの果たした役割は極めて大きい。1958年に完成した草月会館に、生け花の草月会の副会長であった勅使河原宏が主宰となり、草月アートセンターを誕生させたのが同年9月である。「各芸術の綜合という課題ととりくむ共通の広場」を目指すものであった(*7)。以後主としてそのホールを会場として、現代音楽、モダン・ジャズ、演劇、映画などの多方面の分野で先端的な表現活動を立て続けに行っていった。1960年3月には会員組織を発足させ、月刊の会報/機関誌、「SAC」を創刊した。

「記録映画を見る会」がその兄弟組織として「現代芸術の会」を誕生させ(「現代芸術の会」の事務局は、当時の「記録映画を見る会」のそれと同じ労働会館内にあった)、「コンテンポラリー・シアター」の第1回を開催したのは1960年12月15日であった(会場は同年の4月に新設の京都会館第二ホール)。さらにそれに合わせて新しく「現代芸術の会会報」が創刊されている(写真7、8、9)。記録映画を超えて、芸術の各領域を積極的に紹介しようとするもので、これまで辿ってきた会の歩みの到達点の1つであった。会報には「芸術の各ジャンルにわたって意欲的な仕事を紹介しています。【改行】現在計画中の仕事はコンテンポラリ・シアターの他にミュジック・デイ(モダン・ジャズ)シネマ・テイーク【ママ】を企画中です。尚コンテンポラリ・シアターは年4回と決定しました」とある(*8)。想定されているシネマテークがどのようなもので、また本体である「記録映画を見る会」の例会とどのような関係にあるのかは不明であるが、先述の「現代の映画の会」の発展形ではないかと推測出来る。会費は「記録映画を見る会」とは別建てのようで、一ヶ月50円、催しに割り引きがあり、会誌(季刊)とニュースが無料で送付されるとなっている。同時期、「記録映画を見る会」の会費は同じく月額50円であった。

ちなみにこの会報には、翌年1961年3月に第2回目の「コンテンポラリ・シアター」として、岩城宏之指揮によるイゴール・ストラヴィンスキーの『兵士の話』(1918年/草月アートセンターでは1960年7月に公演)が予告されている(これは実現しなかったようで、第2回は後に見るように1961年6月16日開催)。また『西陣』が翌年1961年の1月下旬にクランク・インする旨報じられていることも記しておきたい。

こうした京都の動きは東京の草月アートセンター側からも報じられている。草月コンテンポラリー・シリーズについてであるが、作曲家集団例会(初回は1960年3月)やアニメーション3人の会(久里洋二、柳原良平、真鍋博)などにより次第に「芸術綜合の展望に立った企画が実現されつつある」。これを地方でも鑑賞したいと「京都でその受入組織が作られ、『現代芸術の会』として今後定期的な提携を組むことにした」、との報告がある(*9)。ちなみに、私の手許にある欠号の多い「SAC」誌とセンターの歴史をまとめた書籍からは、そのようないわば巡回の記事はこの時点では他都市についてはあまり探し得ないので、京都の例は特別であると推定出来る(*10)。

この会ならびに会報、そして、第1回の公演内容は、草月アートセンターとの密接な相似や連携を見せる。まず会報の第1号であるが、形は「SAC」誌とほぼ同じ一辺174mmの正方形。省略して「C・A・C」という会の英語名称も「SAC」譲りといえる。掲載されている内容であるが、3ページ目にいわば巻頭言的な「現代時評」がありこれも「SAC」と同じである(執筆者は矢内原伊作)。「NOTE」という公演作品関係者の小文があり、例えば武満徹のそれは「SAC」の第2号(1960年4月)に載ったものである。注目すべきは「SAC」創刊号の冒頭に置かれた安部公房の「新しい綜合芸術への期待」(*11)がこの会報にも所収されていることである。安部はこの中で、既に行われた試みには「ともかく、『綜合化』という現代芸術の全てのジャンルに共通した課題がはっきりと打出されている点」に共感すると書いている。草月アートセンターの理念を確認する言葉であるが、それが京都の「現代芸術の会」にも共有されていると考えても良いであろう。その他には「C.A.C JOANAL(ママ)」のコーナーでは評論家などの短文を集めているが、植草甚一や秋山邦晴などのはいずれも「SAC」誌の各号からの転載である。ちなみに会報の編集者として前年に旗揚げされた「ゼロの会」の津山昌の名前が見られ、ジャズに関する小文を寄稿している(*12)。京都の中にあっても、広い人脈が形成されていたことを物語っているといえる。

さて、「コンテンポラリー・シアター」の第1回について概観しておく。会報の後記欄にも説明されているが、4つの上演演目すべてが草月アートセンターで発表されたものであった。上段で名前を挙げた武満徹の『水の曲』は、先述の作曲家集団の例会、「コンテンポラリー・シリーズ 2」(1960年4月28日)において初演されたものである。「アニメーション3人の会」(「コンテンポラリー・シリーズ 5」〔1960年11月〜12月〕)からは、真鍋博がアニメーション制作や構成を手がけ、映像や能、照明との総合的な作品となった『マリンスノー』と久里洋二のアニメーションの作品。そして安部公房原作、諸井誠作曲のパントマイム、『赤い繭』は、草月での初演が京都公演の前の週であった。これらの多くが特定のジャンルを超えて他ジャンルとの連携を探ったものとして、「総合」への意欲が強く感じさせるものであったことは再確認しておきたい。

第2回の「コンテンポラリー・シアター」は1961年6月16日に行われ、世界のアニメーション/実験マンガの特集プログラムとなっていた(写真10)。「アニメーション3人の会」の内、第1回で紹介されなかった柳原良平の『海戦』のほか、ポール・グリモーやトルンカの作品ほかが上映された。主催は「記録映画を見る会」となっており、「現代芸術の会」ではない。となるとその主催は1回限りであったようであるが、詳しい経緯は明らかでない。現時点までの調査からは、「コンテンポラリー・シアター」はこれら2度だけであったとしておきたい。

これまで述べてきた諸点から、「記録映画を見る会」は(特に「現代芸術の会」に関しては)、草月アートセンターの活動にかなりの程度依存しているのではないかという推察が成り立つであろう。ところがことはそう単純ではなく、「記録映画を見る会」と草月アートセンターとの関係にはまた別な局面が存在する。後章で改めて見ることになるが、ここで少し先走りをしておく。草月アートセンターでは先述のように1960年3月、会員組織「S・A・Cの会」を作り、会報「SAC」を創刊した。そこにはセンターの定例の催しとして「草月ミュージック・イン」、「草月コンテンポラリー・シリーズ」と「草月シネマテーク」の3つが挙げられていて、シネマテークは間もなく5月発足予定となっていた(*13)。

実際には実現が遅れたシネマテークは、会報の「SAC」の第15号(1961年5月)あたりから予告されていたが、日程(第15号では6月28日となっていた)が順延するなどして、ようやく第1回が1961年7月21日に開催された。特集テーマは「ドキュメンタリーの視点」。ある雑誌ではこの定例の映画観賞の催しを劇映画は見る機会があるが、短編の記録映画はそうでない。しかし、「最近はむしろ記録映画関係のものに意欲的な、実験的なものが多く、これはそういう映画をつくる側からも、見る側からも早急に解決しなければならない大切な問題」であるから、これを始めた、と報じている。(*14)。本稿第1部でお馴染みになった「記録映画を見る会」から出された文章に極めて似ている。

プログラムには勅使河原宏自身の『ホゼイ・トレス』(1959年)を始めとし、ウイリアム・クラインやリンゼイ・アンダーソンの作品が上映された。しかし何といっても主役は『西陣』であったと思われる(*15)。おそらく動機としては京都発の自主制作映画を取り上げることで上で引用したようなシネマテークのねらいに沿うことになる。「記録映画を見る会」にしても草月アートセンターにしても、『西陣』の特別試写会(東京:1961年6月27日と7月10日、京都:7月13〜15日)の直後の極めて好都合の時期であった。

上記のいくつかの事実と聞き取り調査(*16)からの知見を基に推察するなら、この第1回のシネマテークはほとんど「記録映画を見る会」のお膳立てによると考えることが可能となる(*17)。その後の第2回シネマテーク(同年9月)、「新しいテレビの映像――和田勉作品集」に関しても、「記録映画を見る会」の1961年7月例会の「作家個展シリーズ No. 2 和田勉」との関連性を見ないわけにはいかないであろう。「草月シネマテーク」自体、勅使河原宏の属した「シネマ58」を継承するものであることは確かであり(*18)、シネマテークを含んでの草月アートセンターの活動は、後年日本における映画状況の新たな変革(記録映画ではなく、とりわけ、アニメーション、前衛映画/実験映画に関して)を担うまでになるのであるが、その出発点においては「記録映画を見る会」の影響下にあった、あるいは、その基本方針を受け継いだものであったと考えられる。「記録映画を見る会」の歴史的意義の1つと認めるべきであろう。この点は終章の「まとめ」で再度論じたい。


 

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紙面からは浅井の関与は看取出来ない。浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
北村日出夫、木村英生[『末っ子大将』をどう見たか 子供と母親についての調査報告]、「OKレポート 映画と教育」、第2号、1960年8月、P. 3-16
「眼」、第4号、1959年8月、P. 11
滝本[学芸 実験映画はどこへゆく]、「京都新聞」、1960年9月15日、5面
浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 21-30
『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 37
[おしらせ]、「現代芸術の会会報」、1960年12月、ページ付けなし
浅井栄一は、親しくなった草月アートセンターの井川宏三が京都の動きに関心を持ってくれたからだと聞き取り調査時に述べている(2009年7月13日)。井川はセンターの発足期の1958年から支配人を務めていた(1964年まで)。詳しくは井川の述懐を参照:『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 102-105。他には、大阪労演が草月ミュージック・インの第2回を再演(1960年8月)する旨、「SAC」の第3号(1960年6月)、「製作室」欄で報じられているが、実現したかなどは未確認(大阪労音の可能性あり)。
[『SACジャーナル』総目次]、『輝け60年代 草月アートセンターの全記録』、「草月アートセンターの記録」刊行委員会、2002年、P. 410-415
安部公房[新しい綜合芸術への期待]、「SAC」、第1号、1960年3月、ページ付けなし
『津山昌の眼』、砺波市美術館、2001年、P. 29、P. 115-116
[SACの会]、「SAC」、第1号、1960年3月、ページ付けなし
[第1回草月シネマテーク]、「美術手帖」、1961年9月、P. 81
「日程の順延の原因に『西陣』の完成の遅れがあるのではないか、と推測しても良いかもしれない。「記録映画」誌、1961年5月号には、制作カンパと完成試写会のお願いが掲載され、完成予定は5月中旬、試写会(東京と京都でほぼ同時)は6月中旬と予告されている(P. 41)。これは上記の「SAC」第15号の予告とは矛盾しない。後に見るように実際の完成は6月中旬であることから、シネマテークの開催日を遅らさざるを得なかったのであろう。
浅井栄一への聞き取り(2009年7月13日)に基づく。
本稿第1部でしばしば依拠した浅井自身の文章の中で、上映会のプログラム編成の仕方、フィルムの借用方法について述べている行がある(フィルム所有者やフィルムに誰が関心を持つかなどの情報を常々意識して貯えておくことの大事さを主張している)。そこで浅井が例としているのが、第1回「草月シネマテーク」であることも傍証として挙げておきたい。浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 27-28。
[日本のシネクラブ運動の現状]、「季刊シネマ69」、1969年1月、P. 94