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図―1:ライデン大学図書館。鎖付きの書架から書物を取り出してその場で立ち読みする閲覧方法が描かれている。なお、書架の配置は「ストールシステム」である。(University Library Leiden in 1610 from Woudanus in Stedeboeck der Nederlanden, Amsterdam: Willem Blaeu, 1649)

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図―1:ライデン大学図書館。
鎖付きの書架から書物を取り出してその場で立ち読みする閲覧方法が描かれている。なお、書架の配置は「ストールシステム」である。(University Library Leiden in 1610 from Woudanus in Stedeboeck der Nederlanden, Amsterdam: Willem Blaeu, 1649)

第2章…「ブラウジング」の実際

2−1 「ブラウジング」の考古学…中世修道院の図書館から辿る閲覧環境の歴史

印刷された本が発明される以前の本、写本の読書/閲覧には「書込み」という行為が付随していた。書籍の版面(ページ)自体が、読書の履歴を刻印していたのである。本の、ページ上におけるテクストを固定化することはなく、それは読者によって繰り返し更新され、さらに批評を交わすことが可能な空間であったということができる。その空間は、利用者にとってテクストを受け取るだけではなく、能動的に「書込み」という行為を付随させていた。その空間は、読書履歴が刻印されテクストが固定化することなく、読者によって繰り返し更新され批評が交わされる、ダイナミックな場であったのである。

それは、現代のウェブを用いたアーカイブ利用(ブラウジング)に共通する、インタラクティブな読書/閲覧と考えることができる。本は、比喩的にいえば本来多様な空間を持っており、読書/閲覧は、その空間を再構成するインタラクティブな行為であった。そのことがあらためて了解されるのである。このような行為は、現行の図書館には想定されていないが、ウェブブラウジングでは一般的に実践されている行為であったことに改めて気づかされる。ウェブブラウジングに通じる行為は、印刷本が出現するはるか前に、すでに確立されていたことに驚かされる。

読書/閲覧とはインタラクティブな行為であった。そのことを理解するためには図書館の利用法を古代と後から開発され確立したウェブブラウジングから学ぶという、逆の発想が必要である。このようなパースペクティブ(逆パースペクティブ)に基づいて、現代の図書館における「ブラウジング」という環境と利用方法を再定義しなくてはならない。

以下に展開する、さまざまな読書/閲覧のインタラクションは、「ブラウジング」という語が(カーライルによって)当てられる以前のインタラクション(しつらいとふるまい)である。印刷された本、機能的な書架、合理的で民主的な図書館が成立する以前の読書/閲覧が、いかにゆたかな環境を読者に与え、読者がそこからどんなに豊かな読書経験を受け取っていたのかを、考察していく。以下は「図書館[しつらいとふるまい]の考古学」(鈴木明、『つくる図書館をつくる−伊東豊雄と多摩美術大学の実験』所収の論考に基づく)。

2−1−1 本は声を出して読むもの、書き込むもの

ヨーロッパの古典時代、ギリシア、ローマを通じて、本(巻子本)は朗唱されていた。写本時代の読書/閲覧は、書物に書かれたテクストを受け取るだけではなく、さまざまな行為を伴っていた。かつて読者は、本を「音読」すなわち声を出して読んでいた。人と本との間には、豊かなコミュニケーションが交わされていたことがわかる。

ラテン語(神の言葉をあらわす言語)で書かれた本は、ひとつながりの文で書かれていた。「[読解]lectioとは、読者がテクストの文字、音節、語、文という要素を同定し、ついで意味に応じてアクセントを施しながらそれを声に出して読み上げる作業である」(*20)

このような読書/閲覧の習慣は、中世に至るまで本に書かれた文が、単語ごとに「分かち書き」されず、句読点のないひとつながりの長い文で構成されていたことに由来している。それゆえ「書かれた文(テクスト)は声に出して発音しそれを自分の耳で聞いて、初めてこれが意味ある言葉であるということを意味するのであった」(前掲書)。読書/閲覧自体が日々の宗教的な修行行為だったことを前提にしているとはいえ、現在の読書つまり黙読とはずいぶん異なった閲覧スタイルだったことがわかる。

印刷術(*21)が発明される以前の本は、(ヨーロッパにおいては)初めパピルスの巻物(巻子本)であり、後に羊皮紙に文字が手書きされたページを束ねてつくった冊子(コーデックス)となり、現在の本に近づいた。中世ヨーロッパの修道院では、本は書庫に納められ読書に供されるだけものではなかった。本は読まれると同時に解釈されるものであり、写され、再生産されるものであった。

「ドイツでは八世紀後半、カール大帝の時代になってようやく写本というメディア新技術が登場してくる。そして、これはたちまちのうちに普及し、規模の大きな修道院で、写本室(スクリプトリウム)を備えていないところはないほどになる。たとえば、ザンクト・ガレンの修道院の写本室は、六つの窓を備えていて、採光は申し分なかった。壁には七つの書写台がならんでおり、部屋のまんなかには、大きな机がひとつすえられていた。ここで写本がおこなわれるわけだが、しかしそれは、けっして個人的な動機からなされるのではない。そうではなくて、すぐれて宗教的な行為なのであった。なぜなら、それは[読ムベシ、書クベシ、祈ルベシ、歌ウベシ]という勤行からなる礼拝の一部であったからだ。修道士たちは、製本し写本することによって、これを果たさねばならなかったのだ。」(*22)

中世を通じて写本が保存されていたのは、主に修道院である。読者(修道僧)は読むことと同時に書写することが義務づけられていた。ここには、現代のわれわれが考えるよりも遥かに豊かな読書/閲覧のインタラクションを見て取ることができる。

「羊皮紙の製造が終わると、写字生たちは写本室長の指導のもとに仕事を始めた。椅子に座り、傾斜した書写台に身をかがめて、厳しい環境のもと、口述される文章を筆記したり、原本を見ながら筆写したりしたのである」(*23)

中世の写本の読書、閲覧という行為は、このような多様なインタラクションを引き起こしていた。その場所は、われわれが考える閲覧空間のしつらいと比べるとはるかに多様な空間を持っていたことがわかる。

ところで、書写の作業はひとりで書き写すことも、ひとりが朗読しもうひとりがそれを書き写すようなこともあった。このようなインタラクションが、石積みの重厚なアーチでつくられた空間の雰囲気や音環境のなかにあったということは重要である。本の読み方、つまり本との関わりは、思考や記憶にも大きな影響を与えていたことを、マーシャル・マクルーハンはメディア論の視点から指摘している(*24)。

現代の図書館における閲覧空間は、黙読を前提とし、利用者間の会話は固く禁じられている。それは閲覧する資料がAV(音を扱う)アーカイブだとしても。そのため、ヘッドホンや個別のブースが用意されるが、レクチャーやコンサートなどを行う空間を、閲覧空間に共存させるための戦略的デザインを、シアトル公共図書館のオーディトリアムに見て取ることができる。

◎装飾としての本、装幀としての本

中世に書写された本は、ページ文字の周りに、美しい図版や文様が描かれたページ(版面)で出来上がっていたものが少なくない。章頭の文字を強調して描く「飾り頭文字」は、やがて人物や動物や幾何学模様で装飾され、テクストはやがて文様の中に吸収されることになってしまう。本文は縁取られ植物の茎や蔓で覆われ、14~15世紀になるとページ全体が画集のような有様となる版面、本も多かった。本全体の装丁は、筆写の終わった折(おり)をまとめて革ひもに縫い付け、表と裏に木の板をつけ表紙とし、さらに皮でカバーした。表紙には模様の型押しが古くから行われたが、貴重な本には象牙や布地、中には宝石で飾られることもあった。

テクストを形成する手書きの文字は、読者によって読まれるという、機能だけではなく物質性を放つものであった。文は、美しく厳しく修練された書写生の作品に他ならず、本文回りを装飾する絵や文様とともに、その時代の芸術を代表する、文化、知のレベルをも形成していたといえる。

現代の図書館の蔵書管理においては、管理保存のためとはいえ、自動的に本のカバーを外したりフィルム掛けしたりするが、それはブックデザイン(本の装幀や版面のデザイン)の軽視としかいいようがない。今一度、このような(かつてあった)本をめぐる知的な広がりとインタラクションに配慮すべきではないか(*25)。

武蔵野美術大学図書館では、このような認識のもとに「アーティストブック」のコレクションをかねてから進めているが(*26)、数少ない先進的な図書館では、このような物質的な本や芸術としての本、またブックデザインへの関心を持ち始め、その研究作業も進めている。

写本というフォーマットが、美的かつ知的な広がりをもっていたことを確認して来たが、そこには現代のウェブブラウジングに通じるインタラクティブな機能があったことを確認できる。

羊皮紙に美しくレイアウトされた本文の回りには大きな余白が残されているが、それは読者が注釈を書き込むためのスペースであった。「ページの欄外には、本文とは別の小さな書体で注釈を書き入れることが多かった。注釈は中世の教育法の基本であって、12世紀以降その役割はしだいに重要性を増し、聖書本文の提示の仕方を大きく変化させた」(*27)

本を読むことは書写することであり、それは聖書や古典を解釈することであった。現代の図書館では禁じられていること「本への書き込み」が、かつて行われていた。本は出来上がったものとして向こう側に孤立してあるのではなく、読者によって絶え間なく解釈され続けるインタラクティブな空間だったのである(*28)。

人文主義の時代となり、印刷術が発明されると、本は中世とはことなった解釈がなされるようになる。新しい人間中心の世界観を求めようとする文化運動は、中世の修道院で書写されたなかで生じた「写しまちがい、翻訳の誤り、余計な注釈などをとり除いて、正確な原典を復活しようと試みたのである。中世の伝統から解放された人文主義者(ユマニスト)たちは、各地の図書館に眠る忘れられた文献を探し回った。もちろん印刷業者もこうした試みに加わり、印刷工房は、印刷業者と学者の緊密な協力の場となった」(*29)。古典というアーカイブは復活して、さらに新しい解釈を生み出すこととなったのである。

2−1−2 読書のために用意された多様な空間

修道院には、中世を通じて古典のアーカイブを保存したさまざまな空間のしつらいがあり、そこではゆたかな読書/閲覧の経験(インタラクション)が生み出されていた。

「美しい彩色[写本]を修道士たちが読んだり書き写したり描いたりしていたのは、一般に想像されているような暗い[房]ではなく、光に満ちた回廊のキャレルだった。(中略)大きい回廊の先に談話の回廊がある。談話の回廊という名が示すとおり、ここでは修道士同士での会話が許されている。この回廊には十二から十五室の小さな房が一列に並んでおり、かつては修道士たちが本を書くのに使われていた。そういうわけで、これらは今でも「書き物部屋」と呼ばれている」(*30)。

かつての修道院には、現代図書館の閲覧室とくらべるとはるかに小さいが、きわめて居心地の良さそうなプライベートな読書/閲覧空間が備えられていた。中庭に面したアーチの柱間、アルコーブ、ベンチからなる小さな空間とそこに射し込む光。たったそれだけの環境条件が、読書の快適な空間を生んでいた(*31)。そこで、中世の修道院の閲覧環境は、効率を優先した近代的図書館建築の計画に対する批判として繰り返しレファレンスされることとなる(*32)。



図―2:多摩美術大学図書館のマグテーブル。図書館における雑誌架は表紙が見にくい。美術大学で購読配架する雑誌はヴィジアル系のものが多く、表紙の情報量が大きい。そこで街の書店で平台に置かれた雑誌のように配架するシステムを採用した。透明ガラスの下に最新刊を置く。デザイン:藤江和子。

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図―2:多摩美術大学図書館のマグテーブル。
図書館における雑誌架は表紙が見にくい。美術大学で購読配架する雑誌はヴィジアル系のものが多く、表紙の情報量が大きい。そこで街の書店で平台に置かれた雑誌のように配架するシステムを採用した。透明ガラスの下に最新刊を置く。デザイン:藤江和子。


図―3:多摩美術大学図書館のメディアバー。バーのカウンター席のように高い座席に腰掛け、すぐ立ち上がれる。このような姿勢はザッピング(複数のリソースを早送りして閲覧する)を可能とする。美大のメディア系学生の視聴に対応している。デザイン:藤江和子。

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図―3:多摩美術大学図書館のメディアバー。
バーのカウンター席のように高い座席に腰掛け、すぐ立ち上がれる。このような姿勢はザッピング(複数のリソースを早送りして閲覧する)を可能とする。美大のメディア系学生の視聴に対応している。デザイン:藤江和子。


図―4:多摩美術大学図書館大型本書架。大型本書架のところどころに設けられている閲覧台。大型本(美術書)を書架から取り出して閲覧席に運ぶ前にブラウジング(パラパラと内容を確認)するための立ち読みテーブルとなる。このようなブラウジングを快適なものとする(誘導する)ため、スタンド(照明)を取り付けている。デザイン:藤江和子。

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図―4:多摩美術大学図書館大型本書架。
大型本書架のところどころに設けられている閲覧台。大型本(美術書)を書架から取り出して閲覧席に運ぶ前にブラウジング(パラパラと内容を確認)するための立ち読みテーブルとなる。このようなブラウジングを快適なものとする(誘導する)ため、スタンド(照明)を取り付けている。デザイン:藤江和子。


図―5:多摩美術大学図書館のメディアシート。従来のAV閲覧席よりも自由な姿勢で視聴できる。シート上部はファスナーで形状を変化させることができる。デザイン:藤江和子。

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図―5:多摩美術大学図書館のメディアシート。
従来のAV閲覧席よりも自由な姿勢で視聴できる。シート上部はファスナーで形状を変化させることができる。デザイン:藤江和子。

2−1−3 鎖の付いた書架

修道院が一手に担い独占してきた本の収集と生産の独占は、1088年にボローニャ大学が創られ、ヨーロッパ各地に大学が設立されることによって、揺らぎ始めた。それと同時に、本の内容や種類も急速に広がり世俗化して行く。修道院以外の施設において、図書は利用者のために公開されることとなる。ただし限定付きの公開である。13世紀以降は修道院だけではなく、大学が修道院以外の写字生のアトリエと図書館を用意するようになった。たとえば、ソルボンヌの図書館は1290年には1,017巻の蔵書を持ち、半世紀後には1,720巻を持つにいたった(*33)

「ソルボンヌ図書館では、一三二一年の規則で、《大図書室》にはこの学校が所蔵する、各部門の最もいい本を鎖につなぐことを規定している。複本や、あまりひんぱんには用いられないもの、貸出し用の本などは《小図書室》に置かれた。数年後の財産目録によれば、大図書室には三百三十巻が鎖につながれており、小図書室には千九十一冊が置かれていた。現代図書館用語に置き換えてみるなら、さしずめ、鎖につながれた本は読書室の参考図書で、小図書室は書庫ということになろう」(*34)。

当時の本は、羊皮紙でつくられた重厚な写本であり貴重だった。図書館では盗難を防止するため、このような所蔵と閲覧のために大げさなシステムを普及させたが、そこにはメリットがないわけでもなかった。大型の本を棚から取り出すとその下にあるテーブルですぐ閲覧できるということである。(図―1:ライデン大学図書館)。

現代の公共図書館で稀覯本や大型本を読もうというときによくあるシステム、つまり閉架書庫に隠された目的の本を書誌データから探し出し、カウンタで請求して取り寄せたり、あるいは大型の書物を書架から遠くにある閲覧席にまで運ぶという手間をかけなくて済むともいえる。

現代の図書館では、大型本を鎖で書架に繋ぐ理由はないが、大型書店では当然のようにおこなわれているブラウジングのスタイル、「平台(台の上に表紙を見えるように平積みする)」における「立ち読み」という、一種の読書のインタラクションを取り入れることを拒否する理由もない。現代の多種多様な雑誌の表紙は、当時の二つ折り大型本の表紙のように華美な装飾が施されている訳ではないが、当代の写真家が撮影した美しいモデル写真がレイアウトされていたりするから、それらが一望できるような書架が図書館に求められてよい。

多摩美術大学図書館に据えた「マグテーブル」「メディアバー」「大型本書架」「メディアシート」などは、このようなブラウジング(自由な読書/閲覧)を可能とする家具什器である(*35)。(図―2:多摩美術大学図書館のマグテーブル、図―3:多摩美術大学図書館のメディアバー、図―4:多摩美術大学図書館大型本書架、図―5:多摩美術大学図書館のメディアシート)

2−1−4 書架の配列と閲覧

もともと図書館を意味するビブリオテークとは、本を入れる棚を意味している。書棚の配列法は本の収蔵量を表すだけではなく、同時に閲覧室の環境を構成する。

ホールあるいはギャラリーのような大空間の環境を形成する、書架を並ベ方にはいくつかの方法がある。壁面に書架をくっつけた「ウォール・システム」と壁面に直行するように書架をならべアルコーブ状の部屋をつくる「ストール・システム」である(*36)。

「図書館設備の革命は、書見台のシステムを壁面排架に切り替えたことにあるが、十六世紀の末ごろでは大図書館だけがこれを実施したにすぎなかった。最初の例としては、建築家フアン・ヘレラ(スペインの建築家。一五三〇〜九七)がフェリペ二世(スペイン王。一五二九〜九八)のために建築し、一五八四年に完成したエスコリアル図書館(マドリッド近郊にある)である。この図書館は長さ六五メートル、幅十一メートル、高さ十二メートルの広大なもので、壁面排架は、建物を支える円柱と円柱のあいだに排列された。地上一メートルの所に傾斜した面が、書見台の形でつくりつけられてあり、その場で本を調べるのを容易にしている。」(*37)

現代の日本の公共図書館では、ウォール・システムを基本とした開放的な開架書庫、閲覧室が多く採用されている。一方、大学図書館では、専門書の書架によって小さなアルコーブを形成したりする複合的な閲覧室が形成される例も見受けられる。

シアトル公共図書館では、このような書架配列法に新たなシステムを付け加えた。「ブックスパイラル」と名付けられるものである。具体的には、000から999までの分類記号を配された本を納める書棚を螺旋状の斜路のうえに、連続的に配置するシステムであり、螺旋の途中にいくつかの閲覧席を配している。建築的には、あきらかにル・コルビュジエが追求した「無限美術館」の構造を引用したものだが、ウォール・システムの連続性とストール・システムの機能性を兼ね備え、矛盾なく統合したシステムといえる。ウェブアーカイブのブラウジングを常識とする利用者にとっては、「スクロール」「ハイパーリンク」といったインターネットリテラシーを援用して、この実体的なアーカイブを縦横に利用することができるのである。

2−1−5 閲覧室の大きさの変遷

中世ヨーロッパの僧院を経て、やがてでき始めた大学や王室付属の図書館では、いまだ数少ない書架と書架に付属した書見台といった組合せによる、こぢんまりとした閲覧環境を形成した。その閲覧室の構成は、窓に一定のリズムを与えることとなり、建築外観を特徴づけていた。

「十四世紀から十六世紀にかけて、書見台の使用が、図書館の設計と配置を条件づけた。書見台の側面から採光するため、ちょうど近代の書庫のやり方のように、並べられた書見台の各列に合わせて窓がとられた。初見台と書見台の距離に照応した窓の平均的間隔は、七フィート、約二・三五メートルである」(*38)

印刷術の普及によって増え続けてくる本は、それを納める書架を増加させることとなり、それに伴なって、閲覧環境もより大きなギャラリーやホールとなっていった。

十七世紀になると百科全般を網羅した図書コレクションを広いギャラリーに公開する近代的な図書館概念が誕生する。なかでもオックスフォードのボドレイ図書館、ミラノのアンブロジアナ図書館、パリのマザラン図書館など「これら三つの図書館に共通している点は、エスコリアル図書館の形式を踏襲して、ひじょうに広いギャラリーの壁面書架に本を置き、ほとんど全蔵書を読者の目に見えるように公開したことである。」(*39)

アントニオ・パニッツィ(1789〜1879)はイタリアからの亡命者で大英博物館の司書補、主任司書を勤めたが、モンターギュハウスから大英博物館に移転するにあたって「図書館プランのなかで、閲覧室と書庫の区別を明確化した最初の人であり、のちにこの方法はほとんど絶対的なものになった」(*40)という。その基本的な考え方はその後の公共図書館にも受け継がれるが、利用者が直接書架内を歩き回り、書棚から本を取り出しテーブルに持参しそこで読むというブラウジングスタイルが評価され、ふたたびホール型の開架式閲覧室が重視されるようになってきている。

2−2 ブラウジングルームの実際

現代の図書館利用者、読者がブラウジングする資料(リソース)は、本だけとは限らない。現代ではあらゆるメディアを横断して、自由に探し、立ち読みし、拾い読みできることも、図書館に求められている。パリのポンピドゥーセンターに設けられている図書館ではそのような利用者の閲覧法にいち早く対応している。

「閲覧室にはあらゆる分野の専門的な範囲に及ぶ三六万冊の本、約二六〇〇タイトルの雑誌、一万部のレコードやCD、二六〇〇本のヴィデオ(商業映画、実験映画、ヴィデオアート、ドキュメンタリーなど)が備えられている。(中略)ある調査目的のために、広大な閲覧室を歩き回っているとき、ふと、とてつもない本に出会うこともある。BPIのスペースはまさに知の横断の身体的な場だ」(*41)

武蔵野美術大学美術資料図書館の、新しい増改築で進められている特色のひとつに、さまざまなフォーマットの資料を横断して閲覧検索を可能とするデータベースのプロジェクトがあるが、このようなアーカイブの次世代にあたる試みである。

現代都市にあふれている膨大な情報環境の中に棲みつき、読書に変わる情報解読法を日常的に身につけてしまっているわれわれは、ブラウジングに際して、図書館に準備された本や読書のオーダー(秩序)を必ずしも前提としないこともある(*42)。

2−2−1 読書/閲覧の空間と自然光

図書館では閲覧室に外部からの自然光を均一に採り込み、快適な読書閲覧環境を確保することは建築計画における大きなウェイトを占めていた。かつて閲覧室がまだ大きな空間として形成されておらず、本棚に付属した書見台で本を開いていた時代から、これは大問題だった。

「窓際の席が断然有利だった。一方、他の席は窓と窓のあいだにある長い壁のところに置くしかなかった。書見台に鎖でつながれた本を読むとき、このような場所に寄って利用できる光の量が異なり、最良から最悪まで幅があった」(*43)

高い天井を持つ大空間を備えた閲覧室は、自然光をより多く確保するため、当然のことながら大きく高い窓をたくさん備えるようになり、それは図書館建築の外観にも影響を与えた(*44)。

稀覯本を集める収蔵庫は通常、一般の利用者の目の届かぬ建物の奥深くに設けられる。だが、イェール大学の稀覯書図書館では、ちょうど日本や中国寺院における経蔵のように利用者が何層分も吹抜けた空間に設けられた巨大な書棚を周りから眺めることができる造りが採用されている。もちろん、自然光は巧みにコントロールされている。

「イェール大学にあるバイネキー稀稿本写本図書館(スキッドモア・オウイングス&メリル社のゴードン・バンシャフトによる設計)では「建物上部の最も目につく部分に窓はなく、ヴァーモント大理石とみかげ石の壁で覆われている。だが、建物に使われている大きな半透明の大理石製鏡板は、厚さが四分の一インチしかなく、内部の空間を照らすのに十分な光を通す」(*45)


図―6:大英図書館ホワイエ(公共空間)部分にあるキングスライブラリー。

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図―6:大英図書館ホワイエ(公共空間)部分にあるキングスライブラリー。


図―7:大英図書館キングスライブラリー前に置かれた閲覧席。無線LAN環境にありウェブ検索が可能である。手描き写本の前でウェブアーカイブを閲覧するという、現代的なブラウジング環境。

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図―7:大英図書館キングスライブラリー前に置かれた閲覧席。
無線LAN環境にありウェブ検索が可能である。手描き写本の前でウェブアーカイブを閲覧するという、現代的なブラウジング環境。

同じような稀覯本収蔵庫はセント・パンクラス駅に移された大英図書館ホワイエにも出現した。地階から地上4階までの吹抜けを貫通した稀覯本書架、キングスライブラリーの塔(タワー)である。それは、だれもが自由に出入りできるホワイエやカフェをも突き抜けている。そこで現代のきままな図書館利用者は、中世の写本(の背表紙)を眺めながら、コーヒーを飲みサンドイッチをぱくつくことさえできる。さらに2008年にはこの公開された空間には、無線LANが完備された。つまり、この空間において新旧のアーカイブの閲覧が可能となったのである。もちろん、このようなインタラクション(しつらいとふるまい)も、読書/閲覧のひとつのかたちである。(図―6:大英図書館ホワイエ(公共空間)部分にあるキングスライブラリー、図―7:大英図書館キングスライブラリー前に置かれた閲覧席)。

2−2−2 キャレル…個人的な閲覧スペース

亡命中のヴァルター・ベンヤミンは、パリ国立図書館の一角に専用の閲覧席を確保し、そこで著作活動を続けていた。ボードレール時代のパリに関する図書館におけるアーカイブズを駆使して書き上げた『パッサージュ論』は、その草稿を後に編纂されたものであるが、その草稿をナチスの収奪から守ろうと、迷路のような図書館の収蔵庫、書棚の一角に隠し置いたのは、当時、司書であったジョルジュ・バタイユであった。

「亡命者たちは祖国を追われ、亡命した国の図書館でそれぞれの代表作を書いた。マルクスは大英博物館で『資本論』を、ベンヤミンはパリ国立博物館(図書館:引用者)で『パサージュ論』を、レーニンはチューリッヒ県立図書館で『帝国主義論』を、レヴィ・ストロースはニューヨーク市立図書館(ニューヨーク公共図書館:引用者)で『親族の基本構造』を書いた」(*46)

わが国の創作者に目を移してみると、さらに多様な読書閲覧環境が見て取れる。田中康夫の『なんとなくクリスタル』は(河出文庫の著者ノートによれば)、「午前中は、国際関係論やマーケティングの本を、午後は、経済や広告関係の専門雑誌のバックナンバーや、小説を、図書館の書庫から引っ張り出して読んだ」(*47)りして書かれ、菊池寛は高松から上京した翌日に上野図書館に行き、大橋図書館、日比谷図書館を利用する(*48)、というように、固定的な閲覧環境ではなく、図書館をわたり歩く者もいたことがわかる。

彼らは、それぞれ図書館閲覧室の一角にあるデスクに、自分の著作や研究活動(ブラウジング)のための居心地のよい場所を作り上げ、そこに毎日のように通いつめていた。しかし、そのような快適な空間は、アカデミックで大規模な図書館だけに確保されていたわけではない。J.Kローリングは失業中、子供を抱えながら喫茶店で『ハリー・ポッター』を書いたことが知られている。

『泥棒日記』で知られるジャン・ジュネは獄中で『花のノートルダム』や『薔薇の奇蹟』を書いたが後年、その文体(古典的で典雅な)をどのようにして体得したのかと問われ「刑務所の図書館の蔵書がよかったからだ」(*49)と答えているし、パリの街中に解放されて以降は、彼が日中、書斎代わりにしていたのは部屋から見下ろすことができる距離にある、カフェの小さな丸テーブルであったことがよく知られている。

このように職業的に読書閲覧を行う者は、与えられた環境を自らの個人的な閲覧空間(キャレル)として形成して来たことがわかる。

ベルリン公共図書館では、修士論文や博士論文をまとめる学生に、一定期間キャレルを貸し出すシステムがあり、ひとつのフロアを形成している。しかし、その生活のほとんどを図書館で費やす利用者のためには読書以外の環境形成、たとえばカフェの考慮も忘れていない。当該図書館に併設されたカフェはおしゃべりに花を咲かせる学生や若者でにぎわいを見せている。

「コロンビア大学の全部の蔵書を合わせると一九五五年には二八七万三千冊を数え、うち八十二万一千冊が総合図書館にある。総合図書館には大閲覧室とブラウジング・ルームがある。教授や研究員たちは、間仕切りされた電話や書類整理箱をそなえたキャレルを長期にわたって使用することが出来る。(中略)ブラウジング・ルームがついに大学図書館においても採用されるにいたった。その最もデラックスなものは、最盛期に設置された。たとえば、一九三七年ごろに、ダルムート・カレッジ図書館の塔に設けられたブラウジング・ルームは、読書のために供されており、ここで喫煙したり、コーヒーをとったりすることもできた」(*50)

このようなキャレルの空間は現代の、特に大学図書館や研究図書館において重要であり、新たな閲覧環境として形成されなくてはならない。

2−2−3 古典的な図書館でも行われてきたイベントや催し

図書館が、独自の催し物や所蔵の稀覯本の展示を行ったり、所蔵書の著者による講演会を行ったりすることは、以前からあった。これもアーカイブ利用者の自由な読書/閲覧(ブラウジング)法に他ならない。古典的な図書館の代表格ともいえる、ザンクト・ガレンのベネディクト会修道院図書館での催しの実際はどんなものだったのだろうか。

「バロック式図書広間は展覧会場としても使われていて、年中交替で展覧会が催される。今世紀前半におけるこの図書館の見学者は三千人から六千人であったが、一九六八年には七万七千人になり、その後は増加する一方である。この広間は最高級の芸術作品であり、訪問者は貴重品の入った陳列棚に目を奪われてしまう。本や絵に関するさまざまな展覧会(古い装丁本、ザンクト・ガレン所蔵のアイルランドの写本、あるいは中世の旅行)といった催しにより、本と図書館の世界はさらに愛好者を増やしていくのである」(*51)

図書館のブラウジングルームがコンサート・ホールとして使われることもある。ウィーンの宮廷図書館館長ゴットフリート・ヴァン・スウィーテン男爵は、モーツァルトを「日曜アカデミー」に招聘した。今日の国立図書館で、モーツァルトは最も有力な後援者だった、男爵のためピアノを演奏した(*52)。

シアトル公共図書館におけるオーディトリアムは、開放的な閲覧室の空間に立体的にまたがってある。閲覧室にいてその催しの気配を感じることはできるが、その音はけっして閲覧環境を邪魔するわけではない(*53)。

そもそも図書館が本をアーカイブし、それを公開(公共的な公開かどうかはともかく)すること自体も、大きくいえば読書/閲覧の行為にほかならない。さらに本以外のコレクション(アーカイブ)を公開するためには、ギャラリーやオーディトリアムのようにそれぞれの閲覧に特化した空間をも求めるようになることがある。


 

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ロジェ・シャルチエ、グリエルモ・カヴァッロ『読むことの歴史―ヨーロッパ読書史』大修館書店、2000、p115
ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、1398頃-1468、ドイツ出身金属加工職人)が1445年頃発明したとされる。『グーテンベルク聖書』(1445年頃)として知られる旧約・新約聖書(ラテン語版)を印刷した。
原克『書物の図像学』三元社、1993、pp23-24
ブリュノ・ブラセル『本の歴史』創元社、1998、p26
「チェイターは彼の著書『写本から印刷へ』のなかで、誰よりも先がけて中世の僧侶の個人読書席、または読書兼歌唱用ブースの問題にメスを入れている。[修道僧たちは原則として一日の大部分を集団で過ごすことになっている。ところがそうした修道院の中でプライヴァシーを確保するためのこの設備は一体何のためのものであったのか。大英博物館の閲覧室のほうに防音装置をほどこした仕切りはないのである。黙読が一般化した今日ではもはやこうした設備は必要ではなくなったのだ。だが、中世の読者を図書館いっぱいに入れたと想像してみよう。彼等が音読のために発する雑音のためにやり切れないことになるのだろう。こうした事柄について中世期の写本テクストの編纂者たちはもっと注意を払ってしかるべきだ。今日筆写する人は書き写すときに、原稿から眼を放す。その際彼の頭にあるものは眼で見たものの視覚的記憶である。それに反して中世の写本家の頭にあったのは聴覚的記憶であり、それもおそらく多くの場合、一度に一語ずつの記憶であったろう。]」(マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』みすず書房、1986、p145)
「詰まるところ、書くことはそれ自体として読むことの一種なのであり、元のテクストに対し一字毎に讃辞を捧げることでもある。優れたテクストには優れた書体という讃辞が捧げられなければならない。人文主義者は、既に見たように、書体の美しさには特に敏感だった。トリテミウスはテクストを深く理解するためには自分の手で書き写す必要があると主張している。より近代の学者でもこの主張に賛同する者は多い」(前掲書『読むことの歴史』p276)
武蔵野美術大学図書館では、2003年より「アーティスツ・ブック・コレクション」として、「アーティスト・ブック」すなわち芸術家らによってつくられた本を収集し、図書館資料室内(の展示ケース)で企画展示を行うとともに、同展の解説研究をリーフレットとして出版頒布している。
前掲書『本の歴史』p34
「学者がペンを執る理由は他にもあった。ペトラルカからスカリゲルに至るまで、学者は自分が書き写したのではないテクストの欄外に書き込みを行ってきた、それは専門的知識を集積させていたのである。同じテクストの別の版に見られる読みの違いを組織的に記録することも良く行われた。(中略)そのスカリゲルさえ、怒りに任せて巨大なX印を本文の上に記し、[くそったれ]cacasの繰り返しで欄外を埋め尽くしたこともある。(中略)人文主義者はしばしば、その本が自分ひとりのものでなく、友人たちのものであることを、表紙や扉のページで強く主張している」(前掲書『読むことの歴史』pp276-278)
前掲書『本の歴史』p74
ヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史』理想社、2004年、p54
「通路と中庭を隔てる柱のすきまは、腰掛けて本を読むのにうってつけの小さな空間で、ここに座ると読書にちょうどいい明かりを得ることができた。特に個別の〈写字室〉や書き物用の部屋がない修道院の場合は、回廊の柱と柱のあいだにできた陽当たりのよいくぼみには特別の価値があり、年長者や、立ち回りのうまい修道士に占領された。というのも読書や書き物、書写にこれほど適した場所はなかったからだ。やがてキャレルと呼ばれるようになるこの場所はあまりじゃまされることなく静かに勉強し、目の前の作業に集中できる空間だった」(前掲書『本棚の歴史』p52)
「〈これらの修道院のなかで、本が並べてある部屋は、近くにある庭のすべてを、そこから眺められるように配置してある〉。これこそは、すぐれた言葉でフランスの図書館の古典的な方法を述べたものであって、その後長いあいだ、天井からの採光しか考えなかった十九世紀の陰鬱な読書室の例で目玉の曇った、二十世紀のフランスの建築家たちがわざわざアメリカまで出掛けて、この方法を発見してきたというわけである」(前掲書『図書館』クセジュ、p46)
「本の貸し出しが許されていなかった学生たちに、本を利用させる方法として、全く新しい利用システムが考え出され、それが西洋の全図書館に広まり、十四、五世紀から十六世紀のはじめにかけてその方法が生み出された大学図書館以外にまで、異議もなく採用されて行った。それは、本を書庫や戸棚に詰め込むかわりに、傾斜した書見台の上に平らに並べて、それを鎖でつないだのである。書見台の下部の棚には、同じように鎖につながれた別の本を置くことができた。鎖の一方の端は、写本の製本背革に釘づけをした金具に連結され、他の端は書見台の端に錠で固定された金棒に結びつけられてあった。書見台に面してベンチが置かれていて、読者は自分の調べたい本の前に座ったまま移動することができた。この鎖につながれた図書館の、イギリスにおける最も古い例は、一三二〇年にできたオックスフォードのものである」(『図書館』クセジュ、pp26~27)
前掲書『図書館』、p27
多摩美図書館のさまざまな家具什器は同じ理由から考えられている。
「外に面した壁に狭い間隔で窓を開け、壁に対して直角に本箱を設置したストール・システムは、長いあいだイギリスの施設図書館の特徴だった。ヨーロッパ大陸では、これとは異なる伝統が別個に発達し、本箱は壁を背に向けて壁と平行に置かれていた。その結果、こうした図書館に入ったときに目にするのは、窓際にキャレル状、あるいは小部屋状のくぼみを抱える本箱の列ではなく、本箱に取り囲まれた部屋で、どの本箱もみな中心の広々した空間に顔を向けていた。後にウォール・システムとして知られるようになるこの設置方法は、スペインのエル・エスコリアル宮で大規模に導入されたのが始まりだった」(前掲書『本棚の歴史』、p144)
「クリストファー・レン([一六三三〜一七二三]は窓の位置を高くし、壁沿いに机置き場を設けた最初のイギリス人建築家と言われているが、ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジ図書館の長さ五八メートル、幅十二メートルのスペースを完全なウォール・システムにしなかった理由を次のように説明する。
[壁際の本棚と、壁から突き出るように置いた本棚の組み合せが、非常に便利で上品だということが証明されるにちがいないし、またそれぞれの小部屋に小さな四角いテーブルと椅子を二脚置くのが学生にとって最良の方法を思われる]」(前掲書『本棚の歴史』p155)

前掲書『図書館』pp36~39
前掲書『図書館』p27
前掲書『図書館』pp38~39
前掲書『図書館』p67
岡部あおみ『ポンピドゥー・センター物語』紀伊国屋書店、1997、p182
「新しい「読書の仕方(モドトウス・レゲンデイ)」はどのような様相を示しているのであろうか。
まず第一に、それはまったく個人的で自由な姿勢をともなっている。地面に横たわって読むこともできれば、壁に寄りかかって、あるいは閲覧テーブルの下にすわって読むこともできる。また、一番よく知られたタイプとしては、机の上に足を投げ出して読むこともできる。第二に、[新しい読者]は読書のためのふつうの補助器具――机、テーブル。書きもの机、等――をまったく拒否するか、あるいは不適切な、つまり突拍子もない仕方で使ったりする。彼らがそこに開いた本を置くことはきわめて稀であり、むしろ好き勝手にとられる読書時の姿勢の無限の格好の中で、ある時には体を、またある時には足を、腕を支えるのに使われる傾向にある」(前掲書『読むことの歴史』p520)
しかし、このような勝手気ままなブラウジングという読書法に対して、眉をひそめる図書館スタッフが昔からいたことを念のために書き留めておこう。
「哲学者イマヌエル・カントは一七六五年、大学教員資格を取得して十年後に、『まことに不如意な物質的生活を楽にする一助として』、ケーニヒスベルク王宮図書館の下級司書の口を国王に願い出た。そして一七六六年に雇われたが、それは館内秩序に気を配るためだった。『ことに、本を好き勝手に引っ張りだしたり、図書室を一般の遊歩道がわりに使用する等、以前からあつかましい振る舞いの絶えない不作法な若者たちがたむろしたときに』。カントは『まったくなじみのない、いやな分野に』勤めたことに気づき、哲学の正教授として、一七七二年職を退いた。」(ゴットフリート・ロスト『司書 宝番か餌番か』白水社、1994、p95)

前掲書『本棚の歴史』p76
「しかし、日光は[人間が依存するものすべてのなかで最も不平等で不安定であり、太陽の位置は気象の変化に左右されやすい]とも書いている。さらに明るい太陽光は本の敵であり、[実は暗いほうが本にとってはるかによい]ので[どうしても光を採り入れたいときは、同程度の費用をかけて、光を避ける用意が必要だ]と述べている。(アメリカ:引用者註)議会図書館には六百の窓があったので、ブラインドの上げ下げにはかなりの時間がかかっただろう」(前掲書『本棚の歴史』p207) 「大英博物館閲覧室のドームは直径百四十フィート(四十三メートル)、高さは百六フィート(三十二メートル)、てっぺんには四十フィート(十二メートル)の明かり窓があるが「この巨大な円形窓と、ドームの根元にぐるりと設けられた大きな窓を通して、太陽光が部屋を照らしていたが、人工照明のない時期が長く続いたので、冬は午後四時までしか明かりを得られず、ロンドンに霧が立ちこめるときにはもっと早い時間に暗くなった。(中略)一八七九年に初めて電灯の使用が試みられ、結果はぱっとしなかったものの、すぐに巨大なアーク灯四基が設置されてまずまずの効果が得られたため、日没後も閲覧室を開いておけるようになった。一八九三年、読書用机の上に白熱灯が設置されたのに続いて、すぐに、参考図書の書棚にも同様の照明が取り付けられた。」(前掲書『本棚の歴史』p198)
前掲書『本棚の歴史』p209
小田光雄『図書館逍遥』編書房、2001、p25
前掲書『図書館逍遥』p175
前掲書『図書館逍遥』p68
前掲書『図書館逍遥』P25
前掲書『図書館』クセジュ、pp131~132、
また、ドイツ・アウグスブルク大学図書館における、修士論文をまとめる学生に対して優遇するシステムが紹介されている。「閲覧スペースは中央図書館、分館の各地にちらばっており、机の数も多いのでゆったりと勉強できる。横長の机に4人ずつ前方を向いて座る形式なのだが、どの机にも片方の端にそれぞれコンセントが備え付けられているのでPCを持ち込んで作業することもできる。そこで勉強していると各スペースの一部の机に全て番号が割り振ってあり、机の上にそれぞれ資料が置いてあることに気づく。これは主に修士論文や学士論文を書く学生用の学習スペースで該当する学生は図書館に申し込むと、この自分専用のスペースが与えられ、そこに自分が使用する資料を貸出手続きした上で取り置いておくことができる。この方法はTischapparateと呼ばれている。当該資料の予約がなければ2ヶ月の貸出延長が可能である。博士論文執筆には個人学習室を利用することができ、この学習室内にも最大30冊まで3ヶ月間資料を取り置いておくことができる。取り置きの資料は、図書館の係員に申し込めば他の学生でも一時的に閲覧させてもらえる。このTischapparateの制度は良いものであると思う。普通のレポートではなく学士、修士、博士論文を書くとなると資料の数も決して少なくないものになる。全てを家に持ち帰るのは大変であるし、同じテーマで研究している人が複数いる場合、資料のとりあいになってしまう。この制度なら取り置かれているとはいえ、複数の人が資料を閲覧することができる。また常に席が確保されているので、館内が混んでいる時でも安心して勉強できる」(中村敦子『バベルの図書館』京都大学総合人間学部図書館機関誌第8巻第1号、通巻14号)

ヴィンフレート・レーシュブルク『ヨーロッパの歴史的図書館』国文社、1994、p168
「この素晴らしい豪華な大広間は、バロック式図書館の中心として学問や研究ばかりでなく、展覧会や宮廷社交界の会場としても使われていた。ハプスブルク王国の君主たちの図書コレクションは、最高の見どころのひとつとしてみなされていたので、旅行者や学者そして〈身分の高い外国人〉がここを訪れた。彼らはここで古い地球儀を鑑賞したり、陳列棚にある写本や稀覯本を眺めたのであろう。とくにみごとなものは一七三七年にオイゲン王子から入手したコレクションであり、これらの本の背や表紙には王子の紋章を打ち打した赤いモロッコ革の装丁がほどこされている。宮廷コンサートやオペラも、この豪華な大広間で演じられたのである。モーツァルトはここで一七八七年から数年のあいだ、みずから編曲したヘンデルのオラトリオとカンタータの指揮をした。今日もなお音響効果は無類に良くて最高の環境のこの丸天井の間でシンフォニーや合唱付きコンサートや嬉遊曲が鳴り響くのである。」(ヴィンフレート・レーシュブルク『ヨーロッパの歴史的図書館』国文社、1994、p108)
OMA/LMN『Seattle Public Library Concept Book』1999
http://www.spl.org/lfa/central/oma/OMAbook1299/page2.htm