謝辞

「記録映画を見る会」について調査を行い、本稿を執筆するに際して、下記の方々のご支援を得ました。記して感謝いたします(順不同/敬称略)。浅井栄一、松本俊夫、坂上しのぶ、植村義夫、是枝良喜、山本卓。

注・引用文献

*1―
「記録映画を見る会」の活動については、これまで本論第2部で取り上げる『西陣』の制作団体という切り口からしか言及されていない。たとえば西村智弘[日本実験映像史14 松本俊夫と記録映画作家協会](「あいだ」、100号、2004年4月)や江口浩[スポンサード映画の光と影](村山匡一郎編[映画は世界を記録する――ドキュメンタリー再考]、森話社、2006年所収)がそうである。会の活動の全体像は不明のままである。また視点を別に取って日本映画史、あるいは記録映画や教育映画の歴史書をひもといてもいわゆる自主上映に関する記述自体が少ないという現状がある。加藤幹郎([映画館と観客の文化史]、中央公論社〔中公新書〕、2006年)が提唱するような観客の側に立った映画の歴史を構築することが責務といえるが、本稿はそうした要請にも答えるものでありたい。
*2―
「京都新聞」(1955年4月〜5月、朝・夕刊)
*3―
浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 21-30。以下、浅井栄一文章から引用の際、特記以外はこの文章なのであえて註記しない。
*4―
浅井栄一は筆者による聞き取り調査(2007年12月10日)と私信(2008年6月18日)において、演劇観賞団体を主宰していた在野の有識者、藤木正治が浅井が記録映画へと開眼するきっかけを作り、生活記録に関しても影響を受けたと述べている。当時は演劇上演や音楽演奏の貸し館となっていたヤサカ会館(勤労者音楽協議会〔「労音」〕や勤労者演劇協議会〔「労演」〕などがよく利用していた)の空き時間に安く借用できるように話をつけたのも藤木であった。ちなみに藤木正治は後段で言及する「記録映画を見る会」が初期に発行していた会報の発行者として名前が残っている(たとえば、「記録映画を見る会 会報」、第3号、〔第11回 記録映画を見る会 特集 京都の文化遺産〕、1956年03月20日)。「記録映画を見る会」の発足とその初期における藤木正治の貢献については、調査は以上に留まっている。
*5―
久野収・鶴見俊輔[現代日本の思想]、岩波書店〔岩波新書〕、1956年、P. 73
*6―
現在の私たちは第二次世界大戦後の日本の記録映画のあり方を批判的に捉える視座を獲得しえている。『西陣』を制作することになった松本俊夫が早くから主張していた戦争責任・戦後責任問題を忘れてはならない。戦前の記録映画の戦争協力と、同じ制作者たちが戦後何の反省も行うことなく映画を作り続けていることに対する告発である(たとえば、次を参照:川村健一郎、江口浩、奥村賢[松本俊夫インタヴュー――初期作品を巡って――]、「川崎市市民ミュージアム紀要」、第14集、2002年3月、P.60-61)。あるいは教育映画と記録映画との関連(さらには産業映画やPR映画)についても言及すべきであろう。しかしながらこれらについては今後の課題としておきたい。
*7―
浅井栄一[「口伝え」の方法からの出発――状況を直視するカメラの記録性に学ぶ――]、「日本読書新聞」、1959年6月1日
*8―
浅井栄一、同上文章。シネ・クラブについては浅井も、後に引き合いに出す「記録映画を見る会」のメンバーの小野善雄も言及している。だが当時、どの程度のことがシネ・クラブに関してこの国にもたらされていたのであろうか? 浅井栄一によれば当時の京都の日仏学館の館長から聞いていたということである(私信〔2008年6月18日〕)。なおシネ・クラブ活動のこの国での隆盛は1960年代以降と言われ(たとえば後に「記録映画を見る会」と共同することになる草月シネマテークは1961年7月に第1回を開催。「世界前衛映画祭」でシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが来日したのが1966年2月。他に、杉並シネクラブの第1回例会が1967年7月15日)。「記録映画を見る会」の場合、それらよりかなり早いことになる。また次節でフィルム・ライブラリーについて言及している個所も参照していただきたい。なお、なぜ会員組織という形態を取ったのかについては、推測であるが当時存在した入場税との関係があると思われる。
*9―
小野善雄[映画運動1959 京都記録映画を見る会の今日]、「記録映画」、第2巻第11号、1959年11月、P. 6-8。以下、小野善雄文章から引用の際、特記以外はこの文章なのであえて註記しない。
*10―
「社団法人日本映画製作者連盟」のサイト参照:http://www.eiren.org/toukei/data.html
*11―
小野善雄[現代の映画の会 新しい映画運動のための提案 『二十四時間の情事』]、「眼」、第4号、1959年8月、P.11-12。ちなみにいえば国立近代美術館(東京)はその1952年12月の開設から小規模ながらフィルム・ライブラリーを兼備していた。フィルム・ライブラリーについては、第3章第4節でも追記する。
*12―
田中純一郎[日本教育映画発達史]蝸牛社、1979年、P. 225、273、309-310
*13―
田中純一郎、同上書、P. 216
*14―
田中純一郎[日本映画発達史 IV]中央公論社、1980年、P. 226-227
*15―
「京都新聞」(1955年4月24日夕刊)
*16―
無署名[事務局だより]、「記録映画を見る会 第7回例会パンフレット」、1955年12月1日
*17―
「記録映画を見る会」機関誌「眼」10号(1960年6月)によれば、1960年に全国自主上映促進会(と書かれているが、正しくは「自主上映促進会全国協議会」)の手で『戦艦ポチョムキン』に次ぐ巡回上映作品となり、再び京都で上映されたという。
*18―
浅井栄一(*3)と同じ文章
*19―
「会報」、第3号、1956年3月20日(第11回例会時に発行)
*20―
浅井栄一(*3)と同じ文章
*21―
小野善雄[現代の映画の会 新しい映画運動のための提案 『二十四時間の情事』](「眼」、第4号、1959年8月、P. 11)によれば、これらのゼミは観客の集まりが悪く、講師招聘費用やフィルムやフィルム貸し出し料金もあり、50円という会費設定が元々無理で、多い時では10,000円、少ない時でも3,000円の赤字を重ねていったという。例会すら赤字なのだからこれらの特別例会は打切らざるを得ない。
*22―
小野善雄、同上文章
*23―
浅井【栄一】[経過報告 発行にいたるまで]、「眼」、第1号、1958年10月頃、P. 8
*24―
(E)【森下註:浅井栄一と見なす】[創造的想像力]、「眼」、第2号、1959年4月、P. 4。浅井栄一は2007年12月10日に行った聞き取り調査でこの小論が「インパクトがあった」と語っている。
*25―
山田和夫[観客運動としての『戦艦ポチョムキン』上映運動]、「記録映画」、第2巻第10号、1959年10月、P. 26-29
*26―
京都市における運動については、カタログ「戦艦ポチョムキン 上映記念」(『戦艦ポチョムキン』上映実行委員会、B5横版/24ページ、1959年4月)所収の三島源太郎報告文「『戦艦ポチョムキン』京都自主上映まで」が詳しい。三島も映画サークル運動の質的な発展が要求されているとし、「与えられたものをみる」から「創造的な集団批評へ、さらに映画芸術家や映画労働者と結びついて、芸術的良心にもとづいた映画をつくる」ことを訴えている。
*27―
浅井栄一(*7)と同じ文章。この数字が全体の動員数か、それとも他の組織ではなく「記録映画を見る会」が独自に集めたものか曖昧であるが、前者の全観客数と解釈しておきたい。
*28―
浅井は配給会社との駆け引き上、金額を公表しなかったという。この作品が当ると見たら、配給会社がその後の各地の上映に関して会社の取り分を多くするのではないかと危惧していたからだという(浅井栄一、森下宛私信、2008年6月18日)。
*29―
浅井【栄一】[後記]、「眼」、第3号、1959年6月、P. 8 
*30―
小野善雄[記録映画を見る会と戦艦ポチョムキン]、「眼」、第2号、1959年4月、P. 4
*31―
ジャン・エプスタンの『アッシャ−家の崩壊』(1928年)などが上映されたが、すべて個人的なコレクションであったという。既に第2章の「記録映画を見る会」の発端について述べたところでフィルム・ライブラリーへの関心について言及した。ここでもう少し追記しておきたい。浅井は同じ時期の文部省芸術祭の「映画の歴史を見る会 ドイツ映画史の回顧」パンフレット(1959年11月頃)の中で、「フィルム・ライブラリーの創設を望む」という短文を書いている。フランスのヌーヴェル・ヴァーグの若い監督たちがフィルム・ライブラリー収蔵の古典映画の研究を通して新しい映画技法を作り出したとし、そのような機会の得られない日本で映画関係者がそれを不思議に思わないことを批判する。そしてこの「映画の歴史を見る会」を回顧趣味の映画会に終わらせず、京都でのフィルム・ライブラリー創設の運動が起こるきっかけになってほしいと願っている。既に本稿で何回か名前の出てきた加藤秀俊は1961年頃に会の浅井栄一から日本映画のフィルム・ライブラリー創設の話を聞き、「映画産業がはじまったそもそもの時から、当然やってあるはずのことだから」非常に驚いたと記している(加藤秀俊[映画企業内部の敵 その1 無反応の哲学について]、「キネマ旬報」、1962年7月1日号、P. 57-58)。残念ながら本稿ではこれ以上敷衍できないが、不完全な映画収集と利用の状況を自分たちで解決しようとした意欲は再度書き留めておきたい。
*32―
浅井栄一(*7)と同じ文章
*33―
久野収・鶴見俊輔、前掲書、P. 114
*34―
加納龍一[日本の現実を知らせる努力、それは記録映画の本質と関わっている 仲間で選び仲間で見る、この会の存在は作家の励ましになる]、「記録映画を見る会会報」、第4号、1956年4月27日、P. 2
*35―
無署名[事務局より]、「第6回例会パンフレット」、1955年10月28日
*36―
久野収・鶴見俊輔、前掲書、P. 113-115
*37―
松本俊夫[前衛記録映画論]、『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』、三一書房、1963年、P. 47-56
*38―
中村敬治[芸術と日常]、「芸術と日常――反芸術/汎芸術――展カタログ」、国立国際美術館、1991年、P. 16

 

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