まとめ

 以上400本を超える映画作品を上映してきた(1961年の半ば頃までの約6年半の間)「記録映画を見る会」の足跡をやや煩瑣な程に辿ってきた。日本の他の同様な運動と比較した場合、その理念と目的が独自であり、活動内容が多岐に渡るとともに影響力を持ち、時期的にも早い、と考えてよさそうである。現在の眼から見ると一般にこの種の文化運動は一部の専門家のものと思われるが、この会についてはそうではなく広範な人々の参加があったことも特徴であろう。このような全般的な評価に加え、以下運動の本質的な部分に関わる問題を検討することでまとめにしたい。

「生活記録運動」に範を取り自分の主体性で世界を捉える立場に立とうとする時、それは個人の才能を否定し消費する既成の政党や労働組合など組織、あるいは社会全般の、いわば形式的で教条的なあり方に対する「怒り」となり「抵抗」となっていった。しかも取り上げようとした記録映画が商業主義の蚊帳の外に置かれ、制作者たちも同様な状況下で闘っていた。浅井栄一は「記録映画を見る会」は「既成の文化運動に対するアンチ・テーゼから生まれた」と書き記している(*32)。自分たちの見たい映画を自分たちで企画し見ることは新しい組織による新しい運動を必要としたのであるが、それだけには留まらない。「生活記録運動」が自らの筆で生活を記録しその積み重ねの中から、やがて社会を変革する視座を獲得するに至ったように、生活の中から出立して新たな映像の創造へとつなげることもが目指されなくてはならなかった。

先に「生活綴り方運動」を評価する論者たちの思考を中途半端なままに置いておいた(第2章第1節)。久野収と鶴見俊輔は生活綴り方運動(生活記録運動)は「自我を軸として記述する方法」であり、自己の個別体験を基に一般化を図るため、全ては自己の体験への「具体的翻訳の可能」の度合いにかかっている点にその限界を見ている。この限界を突破するために、つまり、体験の場所の違いにより自分では体験できないものを「精密に計量された体験の分布図にもとづく、文集をつくること」でそれが「経験的等価物」となり、未体験のものが体験可能となる(*33)。浅井は「記録映画を見る会」とは「映画を通じて現代を考える運動」であると言い換えているが、映画に記録されたさまざまな現実と出会うことは、久野と鶴見のいう「経験的等価物」に相当するのであろう。

プログラム構成を行うための映画作品をどう集めるかについて浅井栄一の考え方を見たが(第2章第2節)、それをもう少し見てみたい。まず浅井は「プログラムによって問題提示する」と書く。それぞれの作品内容に後から手を加えることはできないから、「記録映画を見る会」が選び、組み合わせるテーマが重要になる。この点から例会を単なる映画観賞会と見なすのではなく、映画だけではできない「劇場芸術」を追求したいとする。ここからは現代の私たちの考察であるが、この「劇場芸術」とはいわば文脈化であり、批評的な編集的行為として十分創造的である。それは他者の「経験的等価物」を相互関連させ、見る主体へと新たに送り届ける方法といえる。実際の映画作品を制作することはないが、それ自体既に制作に近いものである。しかし、それに留まるものではなかった。

創造は映画制作者が担うものとされた点を切り口にする。つまり上記とは別の意味での協同作業が希求された(これは今日とは違い、映像制作を自由にすることができない時代における1つの方法であった)。当時「記録映画を見る会」の理念や活動を外部から評価したのが3章に名前を挙げた加納龍一であり、「多くは『教育映画を見せる会』であって、この会のように『見る会』の名で、実際に仲間で見たい映画を選び、仲間で見る会というのは少ない」と書いている(*34)。加納はこの会の人々が「映画を見るというよりは映画を通して日本の現実を見たい」のではないかと考える。それは「記録映画の本質とも関係して大切な点である」と指摘する。加納の立場は制作者であり同じような問題で制作者側も悩んでいるとし、「記録映画を見る会」の存在が作家にとって「力強い励まし」になり、「観衆と作家とを結ぶ力強い共感が見出される」という。さらに「記録映画を見る会」が、「地方の現実の問題に立脚して、自主的な記録映画を心がけて居られることも伝え聞いているが、その計画が実現されることを期待している」と述べる。会の当初からの目標である将来の映画自主制作、つまり、「私たちの生活や問題を 私たち自身の手で 映画にする製作運動をおこそう!」に対する期待である。それにしても「記録映画を見る会」が当初から構想していた映画創造は何所へと向かい、どのような映画を生み出そうとするのか? これまでの調査ではこの点がわずかな提案があるのみで判然としなかった。最初の例会から半年経過した時点で「私達の生活や問題を映画にするために、いろいろな計画をたてています。その第一歩として京都における職場、学校地域の演劇活動を組写真(あるテーマをもって写真を編集していく)にすることを呼びかけています。いずれはこれは他の文化運動にも拡げて行きたいと考えています。積極的な参加を願います」という文章が例会パンフレットの「事務局より」に掲載された(*35)。浅井栄一たちの出自が演劇にあったことが背景にあるが、何か付け焼き刃的な気がする。職場や地域への分散的な巡回上映で満足する、あるいは、すり替えられてしまったかもしれない(先に引用した浅井の言、「考えあうこと、仲間をつくること」が示すこと)。いずれにせよ「記録映画を見る会」が志向する映像制作の姿が見えないことには何かがあると思われる。

上記の加納の指摘、「映画を通して日本の現実を見たい」は示唆的である。生活記録的な映画が描こうとするものは、この日々の生活を送る日本の現実である。カメラの眼への信仰を奉じてその現実を撮影することで「記録」できるのであろうか? 当初はそのような思いがあったであろう。だが、まず第一に生活記録そのものに内在する原因によってその企ては失敗あるいは不十分なものとなる。第2章で宙吊りにしておいた問題を再開したい。久野収と鶴見俊輔は生活綴り方運動(生活記録運動)が「自我を軸として記述する方法」であり、自己の個別体験を基に一般化を図るため、全ては自己の体験への「具体的翻訳の可能」の度合いにかかっている点にその限界を見ている。彼らの結論は「自我を軸としないで客観的世界を軸とする思想展開の方法を、もう一つの軸としてもつことが必要となる」である(*36)。本来的な方法の不備があったというわけである。

次の議論はなお仮説の域を出ないかもしれない。「記録映画を見る会」の関係者が多くの映像を見続けている内に、単なる現実の映画記録だけでは余りに素朴であるとの自覚が生まれたのではないか? その自覚が映像制作の方向を定めることを困難にした、と。こうした考えを支持する出来事もある。第3章で引用したように浅井はアラン・レネの『ゲルニカ』を見た際に衝撃を受け、それまでの生活記録的な方向とは違う前衛的な世界を垣間見た(第4回例会、1955年8月)。そこに「映画そのものによる変革のイメージ」を発見したのである(ちなみにこの作品こそ、後に「記録映画を見る会」の制作で作られた『西陣』の演出担当、松本俊夫をして彼の「前衛記録映画論」を構想させた作品である。(*37)。つまり浅井の発見は記録すべき現実の変革とは違う、映画それ自体が生み出す変革といえるであろう。この視点が『西陣』の制作へと何らかの形で結び付いていることは間違いないであろう。だが、そうではあってもなお日常の生活世界は存在し、主体を脅かし続ける。あえて一般化するなら、「芸術と日常生活との間に超えがたく存在する深淵」(*38)という難問をどのように解消するかが問われなくてはならない。双方からの接近はどこまで行っても出会うことはないのであろうか? この点に関しては、唯一の映画自主制作となった『西陣』を中心とする「記録映画を見る会」第4期の活動を本稿第2部で吟味したあとで、現在と将来の私たちの映像文化のあり方をも射程に入れながら、再び検討することにしたい。


 

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浅井栄一(*7)と同じ文章
久野収・鶴見俊輔、前掲書、P. 114
加納龍一[日本の現実を知らせる努力、それは記録映画の本質と関わっている 仲間で選び仲間で見る、この会の存在は作家の励ましになる]、「記録映画を見る会会報」、第4号、1956年4月27日、P. 2
無署名[事務局より]、「第6回例会パンフレット」、1955年10月28日
久野収・鶴見俊輔、前掲書、P. 113-115
松本俊夫[前衛記録映画論]、『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』、三一書房、1963年、P. 47-56
中村敬治[芸術と日常]、「芸術と日常――反芸術/汎芸術――展カタログ」、国立国際美術館、1991年、P. 16