写真1 弥栄会館(ヤサカ会館)外観

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写真1 弥栄会館(ヤサカ会館)外観

2 「記録映画を見る会」の発足

2−1 基本的な理念

京都は祇園の花見小路を下がったところに、1936年に建築された城の天守閣のような建物がある(写真1)。もともとは千人以上収容のホールを持ち、戦前・戦後はロードショー封切り館であったこの弥栄会館(ヤサカ会館)こそ、「記録映画を見る会」の活動前半期における主たる上映会場であり事務局もそこにあった(現在は国登録有形文化財であり、京都創生座の催しなどで未だ現役として利用されている)。それにしても先述のように映画の力が強大であったとはいえ、会員制の自主上映会にはそぐわない会場ではないかと疑念が湧く。会の活動の実態を探っていきたいがまずは発端から始めたい。

「記録映画を見る会」の誕生にはいくつかの契機がある。いささか長くなるが会の趣意書を引用しておきたい。

「記録映画を見る会」趣意書

いまの世のなかで、わたくしたちが真剣に生きようと努力すればする程、それには大変な勇気が必要になってきます。ところが、それは口でいう程やさしいことではありません。そこでついわれわれは、その苦しさから逃れたくなってくる心の弱さをどうすることも出来ません。

喰べてゆくためには、妥協も、服従も、いっさいやむをえないというためいきも、こんなところからでてくるのだと思います。

こうしたときに、なんの努力や、なんの苦労もなしに慰めてくれ、適当に感傷的に有頂天にもしてくれ、とにかく、考えるという面倒さなど忘れさせてくれる条件は、現在の社会では、およそ不足なしに揃っています。

それは明るく楽しいといわれる映画であり、演劇であり、文学であり、音楽であり、とにかく、商業資本と結びついたもののおおかたがそれであります。そして、それがまた大繁盛しているのです。

わたくしたちはここで、ささやかであっても、この世のなかの安易な流れと、人間のもつ弱さにあえて抵抗を試みようと考えるのです。つまり、世間でこれは「固い」といって敬遠するし、「真面目」すぎるといって見ようとしないものの一つに、日本の記録映画があります。

日本の記録映画の製作者たちは、戦後日本の企業からは見むきもされず、どこからの援助もなしに、恵まれない最悪の条件のなかでひたすら、鋭い現実探究の眼を働かせて、堂々と真実の記録を築いてきたのです。そして強大な商業主義とスターシステムでおおわれた今日の日本映画のなかに、ようやく、その誠実な姿をもって現れてきたのです。

しかし、それでも安易さをよしとする社会では、まだまだ受け入れようとはしません。わたくしたちは、わたくしたちの生活のなかで、この真実のうた声である記録映画と作家の精神を守る運動を起こすことによって、俗悪に流されやすい、わたくしたち自身の心の生活をシンのある豊かさにする一つの機会としたいのです。

この自覚のうえにたって、やがてわたくしたち自身の生活の記録を、良心的な製作者たちの協力によって、わたしたち自身の手で作ってゆくことも押し進めたいと思います。

世界の進歩的な映画サークルの活動も、このような運勒の精神で活発に働いて、その国の文化発展の力強い基礎になっています。

みなさんの積極的な参加をお願いします。
 一九五五年四月(*3)

実はこの趣意書が再掲載されているのは、『西陣』(演出:松本俊夫、1961年)の自主制作後の1961年秋になって会のリーダー的な存在であった浅井栄一が「記録映画を見る会」の運動を回顧している文章中である。しばらくこの文を見ていきたい。浅井は発足にあたり「生活記録の運動」が重要であったと述べる。文筆によるのと同じように「映画を媒介にして、自分の生活の問題を考えることがテーマ」であり、一般にはなかなか見ることのできないすぐれた記録映画を見せることが動機ではなかったとしている。この趣意書も生活記録的発想から出てきていると認めている(*4)。浅井によれば、その当時は日本共産党による政治闘争が示すように「個人の才能の、浪費と、否定の上にたって、闘争がくみたてられていた、やりきれない運動の時代」であった。そうした状況の中で「生活記録の運動」は人間の才能を最大に肯定し、「自分の主体性で、社会の出来事を見つめ、考えてゆこう」とするのであり、同時代の反体制運動の中で積極性を持っていたと評価している。

第二次世界大戦後、日本における生活記録運動(生活綴り方運動)を批判的に分析したある著作では、それを学説の輸入ではない、プラグマティズムの「自発的な思想運動」として重要だと認定している(*5)。この点は「記録映画を見る会」の評価に関しても鍵となると思われるので本稿の最後のまとめで再び考えてみたい。そうした重要性が認められる一方で、「自分の主体性」から発する社会認識に関しては不十分だと予想されるからである。

「記録映画を見る会」にとって、「生活記録の運動」だけが最大の要因であったわけではない。自らを肯定し主体的に生きようとする時に生じる「怒り」も、同じように会の原動力なのであった。優れた映画が商業的に採算に合わないとして世間から不当に扱われていることへの「怒り」であり、より一般的には自分たちの才能を否定したり歪めようとするものへの「怒り」である。かくしてそれは「二重の抵抗」となる。つまり当時の社会状況において、脅かされた自らの実存と、上映されずにいる映画作品とが重なってくるのである。やがて例会を重ねていく中で紹介される映画作品も記録映画だけでなく、他のジャンルでも一般に日の目を見ない商業映画や、あるいは個人が制作した実験映画などに広がっていく。このような変化も会の原点が以上のようなものであったと理解するなら、首肯できるものである。

しかしながらその辺りの思考の機微はやや理解が難しい。この趣意書に書かれているように記録映画そのものが置かれた状況が「戦後日本の企業からは見むきもされず、どこからの援助もなしに、恵まれない最悪の条件」下にあったことは確かである(*6)。だがそれだけでは不十分である。この点はここで引用している小文の2年半ほど前に書かれた文章においてよりはっきりと示されている。そこでは「記録映画を見る会」を始めたのも記録映画を「みなさんのために【原文は傍点付き】紹介しようという、啓蒙的な考え」からでも、「創造方法としての記録性」の重視でもなかった。「さまざまな混乱や矛盾を前にして、目をそらさないで、あえて状況を直視するカメラの記録性を、自分たちの現実に生きる姿勢にしたかった、という素朴な考え方」からであると述べている(*7)。啓蒙はいざ知らず、さりとてカメラの記録性そのもの賛美(今日の用語を使うならカメラのメディア的可能性、となろうか)に終わるのではなく、その記録性の価値(直視)を認めた上で、なおそれを自分たちの主体性へと戻し結び付けることが肝要と考えられている。趣意書で記録映画が「鋭い現実探究の眼を働かせて、堂々と真実の記録を築いてきた」と書かれている行は、このように読み取るべきである。

ここでもまた「生活記録の運動」に由来する思考と態度、さらには自我的な主体が登場することになる(この点は先にも触れたように、この論考の最後において扱う予定である)。いわばカメラを用いた生活記録であり、趣意書の末尾に書かれているように「わたくしたち自身の生活の記録を、良心的な製作者たちの協力によって、わたしたち自身の手で作ってゆく」という宣言である。このように自分たちの映画作品制作を標榜した点が他の自主上映組織と比べた時の「記録映画を見る会」の独自性となっている。これに関して以下を附記しておきたい。上映会にしばしば制作者が招かれ講演を行っているが、それこそ映画運動が創造的であるためには「つくり手と受け手が、強い協力関係をつくる以外に方法がない」という認識からである。会の発足に当りフランスにおけるシネ・クラブを参考にしたとしばしば書かれているのも、この文脈で理解可能となる(*8)

かくして浅井は1961年の時点で「記録映画を見る会」の活動を次のように要約するのである。「その出発と根底において、たえず政治的な抵抗の運動であり、また、その具体的なプログラムにおいては、映画による変革のための運動である」。


 

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浅井栄一[ある映画サークルの歴史――「京都記録映画を見る会」の場合]、「映画評論」、第18巻第10号、1961年10月、P. 21-30。以下、浅井栄一文章から引用の際、特記以外はこの文章なのであえて註記しない。
浅井栄一は筆者による聞き取り調査(2007年12月10日)と私信(2008年6月18日)において、演劇観賞団体を主宰していた在野の有識者、藤木正治が浅井が記録映画へと開眼するきっかけを作り、生活記録に関しても影響を受けたと述べている。当時は演劇上演や音楽演奏の貸し館となっていたヤサカ会館(勤労者音楽協議会〔「労音」〕や勤労者演劇協議会〔「労演」〕などがよく利用していた)の空き時間に安く借用できるように話をつけたのも藤木であった。ちなみに藤木正治は後段で言及する「記録映画を見る会」が初期に発行していた会報の発行者として名前が残っている(たとえば、「記録映画を見る会 会報」、第3号、〔第11回 記録映画を見る会 特集 京都の文化遺産〕、1956年03月20日)。「記録映画を見る会」の発足とその初期における藤木正治の貢献については、調査は以上に留まっている。
久野収・鶴見俊輔[現代日本の思想]、岩波書店〔岩波新書〕、1956年、P. 73
現在の私たちは第二次世界大戦後の日本の記録映画のあり方を批判的に捉える視座を獲得しえている。『西陣』を制作することになった松本俊夫が早くから主張していた戦争責任・戦後責任問題を忘れてはならない。戦前の記録映画の戦争協力と同じ制作者たちが戦後何の反省も行うことなく映画を作り続けていることに対する告発である(たとえば、次を参照:川村健一郎、江口浩、奥村賢[松本俊夫インタヴュー――初期作品を巡って――]、「川崎市市民ミュージアム紀要」、第14集、2002年3月、P.60-61)。あるいは教育映画と記録映画との関連(さらには産業映画やPR映画)についても言及すべきであろう。しかしながらこれらについては今後の課題としておきたい。
浅井栄一[「口伝え」の方法からの出発――状況を直視するカメラの記録性に学ぶ――]、「日本読書新聞」、1959年6月1日
浅井栄一、同上文章。シネ・クラブについては浅井も、後に引き合いに出す「記録映画を見る会」のメンバーの小野善雄も言及している。だが当時、どの程度のことがシネ・クラブに関してこの国にもたらされていたのであろうか? 浅井栄一によれば当時の京都の日仏学館の館長から聞いていたということである(私信〔2008年6月18日〕)。なおシネ・クラブ活動のこの国での隆盛は1960年代以降と言われ(たとえば後に「記録映画を見る会」と共同することになる草月シネマテークは1961年7月に第1回を開催。「世界前衛映画祭」でシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが来日したのが1966年2月。他に、杉並シネクラブの第1回例会が1967年7月15日)。「記録映画を見る会」の場合、それらよりかなり早いことになる。また次節でフィルム・ライブラリーについて言及している個所も参照していただきたい。なお、なぜ会員組織という形態を取ったのかについては、推測であるが当時存在した入場税との関係があると思われる。