1 時代背景:1955年

1955年5月30日第1回上映会を開催した「記録映画を見る会」の活動の背景として、簡単に当時の状況を確認しておきたい。

第二次世界大戦終結後1950年代になり米ソ間の冷戦や朝鮮半島の緊張(朝鮮戦争は1950年に勃発、53年停戦)の高まりとともに、連合国軍総司令部の対日占領政策が大きく変化した。レッドパージが行われ、警察予備隊の設置や日米安保条約の締結を経て、日本の主権が回復する(1952年)。社会のあらゆる局面が激しく流動する状況において、政治運動については一時期武装闘争路線を歩んだ日本共産党との拮抗で新左翼が台頭してくる。1960年の安保闘争を挟んだ50年代から60年代にかけてのこのような状況が政治だけでなく、広い意味での文化の動向を考える際の背景となっている。美術においては早くは「夜の会」(1948〜50年)があり、「読売アンデパンダン」(1949〜63年)への特に1960年前後からの出品作家/作品が注目される。戦後アヴァンギャルドと呼ばれる、既成の画壇とは離れて個人の表現を追求する熱気が生まれていた。そのような大きな流れに位置付けておくべきものとして、たとえば関西を中心にした「具体」が挙げられよう。

映画は全盛期とはいえ、いわゆる五社体制による囲い込みが存在していた。後述するように外国映画の輸入についても規制が厳しかった。同時に東宝争議後のレッドパージを一因とする独立プロの興隆を支えるものとして、各地に映画サークルや労働組合の映画観賞組織(労働者映画協議会、略して「労映」)などの誕生を見ていた。1960年頃には日本のヌーヴェル・ヴァーグが登場する。極めて私的な実験映画や個人映画の息吹が50年代後半頃から生じ始めていた。記録映画に限っていえば「教育作家映画協会(後に記録映画作家協会と改称)」が組織され(1955年)、機関誌「記録映画」ほかを通して戦前を引きずったような映画観への反旗となる主張が力を持ち始め、その実践結果の作品が生み出された。

時代は1948年に遡るが、連合国軍総司令部民間情報教育局(CIE)は日本の民主化に関連して特に教育における視聴覚メディアを重視し、16ミリ映写機(「ナトコ(Natco)」)と映画フィルムの貸与を決めた。これにより文部省と都道府県教育委員会を基点とした、商業映画とは違った形の映画収集・保存と上映組織の活動が促された。海外の出来合いの作品では不十分であるとして、たとえば「社会科教材映画大系」が企画され、1951年頃までに15本が完成した。以後教育映画の制作が盛んになっていった。このことは教育の場においてだけでなく、社会のさまざまな場で映画というメディアが1つのコミュニケーション手段として重視されていたことにつながる。

「記録映画を見る会」が旗揚げする直前の、1955年4月から5月の京都の様子を当時の新聞から抽出してみたい(*2) 。最初にまず計算できるのが商業映画館の数である。ニュース主体の2館を含め48館であった。第2は上記の「ナトコ」に由来する活動である。京都市教育委員会社会教育課が「教育映画を見る会」や「教育映画研究会」、「美術映画を観る会」などを数回開催している。これには区単位での小学校を会場としたものが加わる。次は同じく市教委が「市民映画教室」作品を選定し、市立中学と高校の映画教育研究会や京都学生映画連盟、京都映画サークル協議会など他の組織の推薦を受けて商業映画館で上映することがある(料金150円が前売券では80円に割り引き)。市教委ではなく別の組織の企画するものを4番目に挙げたい。保健所で『結核予防と赤痢』といった「衛生映画」が上映されたり、青年団主催のものや消防分団詰所完成記念映画会などもある。このように映画は娯楽だけでなく、教育や情報伝達のメディアとして幅広いあり方を担っていた。

1953年にテレビ放送が開始され、以後着実にこの国の映像文化における位置を確かなものにしていく。映画は繁栄を誇っているように見えて、密かにその土台を蝕まれ始めていた。


 

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「京都新聞」(1955年4月〜5月、朝・夕刊)