2 カタチのハナシ

 こういうところには引用しにくいのだが、しなくてもおよそのMickey mouseはイメージしていただけるだろう。制作された作品の年代にもよるが、大きな目、耳、口、手、足が特徴である。このうち、耳は輪郭を特徴付けるうえで大きな役割を担っているが、感情表現を行うわけではない。一般的には耳は受動的な器官である。これに対して目、口、手は感情を表現するのに欠かせない器官である。大きければ良いというものでもないが、アニメーションを前提にしたキャラクターにおいては感情表現器官の誇張という捉え方が出来る。手や足も、顔の表情とは別な表現力を持っている。「顔では笑っているのに手に力が入りワナワナしている」とか、「顔は怒っているのに、手足は震えている」などといった場面を思い描いてみると、より複雑な感情表現が可能であることがわかる。一方で生命活動には重要な役割を果たす臓器が集中する胴体は、アニメーション的見地からは必要性は薄い。性別や技能を表現する場合には衣装や体つきによって特徴づけることも可能なので、むしろこちらを重視してデザインする場合があるにしても、感情表現にはあまり役割を果たさないので、扱いを小さくすることも多い。横長であるTV画面に全身を入れようとする場合にも等身が小さいほうが画面に対する表現器官の面積が増え、豊かな感情表現に向くとも考えられる。総じて子供向けといわれるような等身の低いキャラクターはおおむねこういった特性を持っている。また、彼らは手袋をしたり、関節の表現を省くなどして彼らの世界から死を排除する。解剖実習の経験がなくても、骨格の上に、筋肉や神経が張り巡らされ、その上に外部とのインターフェイスを残した継ぎ目のない皮膚が被い、これらに支えられて臓器が活動していることは自らの肉体を通して感じていて、様々な体験や知識がこれを裏付けている。そして、それはいつか死を迎えることを知っている。それが生命であり、生命あるものは滅びる。しかし、彼らは豊かな感情表現をする一方でこれらの生命の証を排除し、永遠の命を獲得するのである。逆に、ホラーものともなると、ことさら生命構造が強調される。ゾンビものは設定上その代表だが、H.R.Gigerの描いたAlienは、この種のキャラクターデザインの代表といえる。機械と融合したような体には、表皮がほとんど無く、生命構造がむき出しの状態である。そして、エイリアンデザインの最も秀逸なポイントだが、目がない。これによりコミュニケーションが絶望的に成立し得ない生き物であることが表現される。命乞いをしても、とても聞いてもらえそうにないのだ。一方で前後に長い頭部は、その指向性を明瞭に示すので、目線の代わりに何に反応し、考えているのかを表現することに役立っている。画家であるH.R.Gigerがそこまで計算していたかどうかはわからないが、いずれにしても賞賛すべきデザインであることに変わりはない。このように考えると、Mickey mouseとAlienは両極にある。感情表現器官の誇張の代表と生命構造表現の誇張の代表ということができる。この両極の中央に人間を配置し、その物差しで様々なキャラクターを見てみると、主題や対象年齢に応じて死のイメージがコントロールされていることがわかる。
 20世紀を代表するキャラクターデザインと比較すると言う意味ではなく再びDualHeadを見てみると、全体に対する表現器官の割合が高いことがわかる。主題である2つの頭と移動のための足しかない。生命として機能するとは思えない構成で表情を司る器しかないといってもいい。これは表現器官以外は必要ないとのMickey mouse的判断を追及した結果とも言える。DualHeadsデザインの初期段階におけるスケッチは、ダイレクトに人間の頭部と手からだけ構成されている。描いてはみたが、あまりにダイレクトでつまらないので、あれこれスケッチを重ねるうちに後頭部すら余りに思えて出てきたデザインなのである。当然、画面への収まり方も考慮してはいる。一方で、ごつごつした関節、できものに覆われた顔など各器官は生命構造を強調している。乱暴な言い方をすればMickey mouseとAlienの融合である。しかし、これでオリジナリティーを主張するわけではない。はるか昔15世紀の画家Hieronymus Boschの描いた地獄にはあらゆるものが融合したクリーチャーが既に満ち溢れている。Boschのクリーチャーは謎に満ちたものが多いが、当時の世俗に対する風刺であり、批判精神から生まれたものと推察される。心理学者Carl Gustav Jungをして「無意識の世界を暴く画家」と言わせたとされる。彼の描くキャラクターがエンターテインメント系のキャラクターとは、少し別な位置にあると感じるのは、生命構造を表現しながら、生命体としての整合性には囚われず、むしろチグハグな組み合わせを積極的に取り入れて、そのズレの部分に意味を見出そうとしているからだと考えられる。「柔らかい時計」で有名なSalvador DalÍの作品にも、極端に長い足の「宇宙象」、原爆に想を得たとされる立方体の空洞を持つ「幼児キリスト」などにも、Boschとはまた違うセンスのキャラクター性を見ることができる。もう10年も前の話になるが、「incaranatia」というゲーム作品で、DalÍの絵画作品をわざわざ3DCGに起こした経緯もあるので、影響があるのは確かだ。
 ところで、3DCGというものを、未だにスイッチひとつで簡単に何でも出来ると誤解している人は多いが、当事者からするとまだまだ制限が多いと感じている。模型を使用した特撮と比較すれば、物理法則に左右されないなどという点における自由度は確かに高いが、柔らかい表現。髪の毛や布、筋肉や皮膚といった表現は現在でも制御が簡単とはいえない。私のデザインにはそういった極めて今日的な事情も含まれている。理論上可能であっても、個人には難しいこともある。うっかり難しい表現を含むデザインをし、全体のクォリティーを下げてしまう例も多い。もちろん難しいからといって避けてばかりいては成長がないのでチャレンジする姿勢は必要だが、やる限りは尻尾を出さないようにしたいというのが、私の考え方だ。具体的な例を挙げると、ハリウッドなどではリアルな生物表現をする場合に、筋肉と表皮を現実に沿って構成し、たるみや動きのずれまで表現する。しかし、個人的制作でそこまでは手が回らない(回す人もいるが)ので、時期が来るのを待つことにしている。前向きに捉えれば、技術的な不備はデザインとアイディアで補う。これが、私の立場からできる最良の選択だと考えている。


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