6 山小屋での製作と生活

 新子氏の19歳から40歳代中頃までの期間は、家族と離れ栗の木を求めて山から山へ小屋(図2)をかけて渡り歩いた時代であった。昭和の初期には、大塔町惣谷地区におよそ60世帯、惣谷から5キロほど川を遡った篠原地区におよそ80世帯が住み、そのほとんどが木地師で生計を立てていた。木地師の数が多く、土地の材料だけでは賄えないため、山から山へと渡り歩いて、小屋をかけて寝泊まりしながら木を切ってその場で製品にしていた。2007年現在、惣谷、篠原ともにおよそ20世帯で木地師は新子氏ただ一人である。
 かつて山小屋は、木地師3人または4人一組で利用していたが、杓子作りにおいては共同作業はなく、倒木から仕上げまでをそれぞれの職人がひとりで別々にこなしていた。小屋の周辺に良材がなくなると、移動して別の場所に小屋を建て替えるという作業の繰り返しであったが、移動のサイクルは短くて半年、長くて2〜3年であった。小屋は、山の木を伐って建てた粗末な物であった。壁は、樅や栂の枝葉を蔓で縛って固定していたが、葉が枯れて竹箒のようになると隙間から入った雪が夜には布団の上に積もることもあったという。


図2 山小屋平面図

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図2 山小屋平面図


 栗の木は、「まさかり」を使って切り倒していたが、生えている栗の木をすべて切り尽くすということはなかった。小屋の廻りにある栗の立木の半分以上は、径の小さい木や材質面で用材として相応しくない木で、そのような木は切らずに残しておいた。15年〜20年のちにまた同じ場所に小屋を建て、残しておいた木の中で十分成長したものを、伐採して利用する。伐採する木の廻りには、その木が落とした実から萌芽した若い木がすでに育ち始めているということである。
 当時の木地師の一日は、朝4時に起きて5時から仕事を始め、夜は10時まで「ことぶし」という石油を燃料とした照明のもとで作業をした。杓子1本いくらの彫り賃制であり、最低1日100本は、彫らなければ1人前ではないとされた。
 食事は、小屋の真ん中に切った囲炉裏で調理し、仲間と一緒に摂った。米と味噌汁と漬け物の粗末な物で、木地師は、鳥目や脚気を患う者が多かったという。山での生活は5日サイクルで、1日目が木ごしらえで材料の栗の木の伐採や煮炊き用の薪造りや他の雑用であった。2日目〜4日目が杓子作りで第3章の1日9工程を3日間繰り返して製作した。5日目が休養日である。5日に1回程度、在所の女性が小屋まで食料を届け、杓子の完成品を受け取って山を下りる。自宅に戻るのは、畑仕事の忙しい5月と10月、それから盆と正月の年に4回程度であった。
 新子氏が山小屋での杓子作りをやめたのは1970年頃で、チームを組む木地師がいなくなったことがまず第一の理由であった。他に国策で杉、檜の植林が奨励され栗の木が減ったことや輸送手段の発達で遠方から材木商を介して丸太を容易に入手できるようになったことが挙げられる。
 木地師と同じく材料を求めて山に入った職種に「杣」や「樽丸師」がある。「杣」は木を倒し丸太を運搬可能なサイズに木挽きする職人であり、主に建築の部材を取り扱っていた。「樽丸師」は杉の木から樽丸(樽用の側板をまとめたもの)を生産して山から下ろしていた。年輪が緻密で節のない吉野の杉材は酒樽に最適であり、かつて吉野の林業は樽丸林業とも呼ばれた。


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