4 まんが・アニメーション・映画の統合カリキュラムの構築と実践について

4−1 まんが・アニメーション教育の1年次到達目標

 まんが・アニメーション専攻における1年次の到達目標として大塚は、(1)方法という視点からの近代まんが史の理解、(2)いわゆる「映像的手法」に基づくまんが演出技術の習得、(3)物語の構造論の援用によるプロット構築技術の習得、(4)同じく物語の構造論に基づくキャラクターと「機能」*1関係の理解、の4点を置く。それらは全て「方法」を構成する理論及びその歴史的展開を理解すると同時に「方法」そのものの実践的習得を目的とする点で1つのカリキュラムを構成する。それ故、その点で「まんが方法論」の名称で統括すべきものだが、「まんが原論」「物語基礎演習」及びそれらに付設した補講によって講義上は構成される。座学として行われる(1)を除き残る三点は課題の反復的学習によって方法を習得するもので、例えば(2)を例にとれば、Владимир Я.Пропп(ウラジミール・プロップ)、Joseph Campbellら代表的な物語論の研究と学説について概略的に学習するが、固有名や学説を知識として習得することを目的とせず、「物語の文法」を援用してプロット構築を実践しうる技術の習得を目的とする*2。これは「映像的手法」の習得とまんが史との関わりにおいても同様であり、まんが表現に映画的演出論を援用する映像的手法がいかに歴史的に形成されたかの理解とその手法の実践的取得を併行して行うことで、まんが史の蘊蓄的理解及び実践と解離した理論化に指導が陥ることを回避する。いわゆる「マンガ学」が提唱されて久しいが、まんが及びアニメーションの実作者を育成することが当学科の目的である以上、この点は常に留意されてしかるべきである。
 このうち前章で提示した映像領域における統合的基礎教育授業として構想されているのは(2)の「映像的手法」の習得に関わる部分である。戦後まんがの規定する「映像的手法」が酒井七馬原作・手塚治虫作画による『新宝島』(1927年、育英出版)であるという定説そのものは否定されつつあるが、同時に石森章太郎の『少年のためのマンガ家入門』(1965年、秋田書店)による体系化以降、まんが表現の方法が映画的演出と互換性があることについては実作者の側から経験則的に肯定されてきた。例えば石森章太郎は映画の絵コンテ形式とまんがを混在させた手法に基づくまんが作品を発表し、両者の演出方法の互換性を立証しようとしている*3。しかし一方で「映像的手法」という用語そのものが所与のものとなりながら、その意味するものの理解については研究者の間でも必ずしも一致していない印象がある。
 まずこの点を歴史的に整理する講義を行うことで学生は自身が習得する方法の定義と来歴を理解する。(1)の目標はそのような理由から設定されている。


4−2 まんがにおける「映像的手法」の歴史
 

 映像的手法の成立展開については以下のように説明する。
 そもそも映画を規範としてまんがの手法を構築しようとする思考は昭和初頭、日本のまんが表現がアメリカ製アニメーションの書式によって書き換えられていくことになる直前に一度、試行錯誤されているものである。しかし、「映画」のような「まんが」の理解のされ方は多様でこの時点では、「シボル」(「フェードアウト」の意)などの映画独特の演出を意味する語を作中に引用することで映画を見てもらうような「気持ちになる」ことを読者に求めるもの*4、タイトル文字などのタイポグラフィーを映画の字幕の書体に似せたもの*5、Charles ChaplinやHarold Clayton Lloydといった喜劇映画の役者をまんがに登場させそのギャグを再現しようとしたもの*6などが「映画」を模倣したまんがとして試みられる。このうち、喜劇役者を実名で登場させその笑いを表現しようとした藤井一郎「ロイドの冒険」シリーズにおいて「映像的手法」の一部を構成するパースペクティブのあるコマを可能にしている。(図3)
 しかし、アメリカ産アニメーションのキャラクタ―の書式に従って「のらくろ」のキャラクタ―を構想した田河水泡は、「のらくろ」の演出論としては「映画」を採用せず、むしろ構成主義的な「平面」として画面を構成しようとしていた形跡がある。例えば田河水泡は『のらくろ』で柳瀬正夢が1925年、三科展に出展した「貨物自動車」(図4)の引用を行っているが(図5)、これは田河の前身が村山知義らと大正アヴァンギャルドに参画した高見沢路直であることを考えた時、不思議でない。田河の初期作品にはこのような構成主義的要素がコマ内の構図に見られる。『のらくろ』の演出は従来、「舞台的」とされてきており*7、また田河自身もキャラクタ―たちが作中で舞台劇を演じるという挿話を好んで描いており*8、「舞台的演出」の採用は相応に意図されたものであったことはうかがえるが、他方、「映画的」な画面ではなくより平面的な画面構成が田河によって選びとられた背景には田河の大正アヴァンギャルド体験が作用していると考えられる。
 こういった「平面的」「演劇的」な画面が「映画的」なそれに変更していくには戦時下の思想統制としての科学主義が、アメリカ製アニメーションの非リアリズム的な書式の援用に依るまんが表現にリアリズムの導入を強制したからであり、それは結果としてまんが表現におけるパースペクティブの強調につながり、その結果、まんがのコマとコマの統辞法は映画的モンタージュ論を採用せざるを得なくなる*9
 そのように戦時下において(1)コマの中のパースペクティブを強調し(2)その様な映画の「カット」に接近したコマをモンタージュしていくという手法が、遅くとも大城のぼるの『汽車旅行』*10までに成立し、このような手法がデビュー以前の手塚治虫によって習得されていたことは戦時下の習作とされる『勝利の日まで』*11によって確認できる。(図6)
 しかし、手塚治虫にとって戦時下の技法である『新宝島』の冒頭で見せた映画的手法は、そのパースペクティブが消失点に向かって歪んで設計されている点でコマが映画の1カットではなくアニメーションの1カットとして設計されていることが確認でき、その意味でアニメーション的手法だといえる。
 手塚がアニメーション及び映画からの影響下にまんが表現に採用した手法としては、(1)アニメーションのコマ送りのような演出(図7)、(2)「群衆漫画」「パノラマ漫画」と手塚が呼ぶ大画面、(3)喜劇映画におけるキャラクタ―の「動き」の形式性、(4)「スターシステム」と呼ぶキャラクタ―に作中で役を演じさせるという発想など多方面に見出せる。またいわゆる手塚の「記号説」の一部を成す、キャラクターを過度な類型としてとらえていく志向はСергей Михайлович Эйзенштейн(セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン)の「ティパージュ」論と同質のものであり、「ストーリーまんが」というまんが表現の物語性の導入にしても映画表現に依る物語形式の必要性の有無が戦時下に論議される中で映画評論に「ストーリー様式」*12なる言い回しがなされたことを考えると、それらの方法意識さえも「映画」と無縁でないとさえ考えられる。
 だが一方で手塚は自身の名義で刊行したまんが入門書において『新宝島』の冒頭でみられるような「映像的手法」についての解説をしていない。手塚と「映像的手法」及び『新宝島』の三者が結びつけられたのは1960年代にいわゆる「劇画」が台頭する中でその手法が美術系の批評家によって映画演出とのアナロジーで語られたことへの一種の対抗として藤子不二雄『まんが道』*13などで手塚起源が強調されたことによると考えられる。『まんが道』では藤子不二雄に『新宝島』を見せるのは「激河大介」なる「劇画」を連想させるキャラクタ―であることはそのことを婉曲に物語っている。
 手塚自身が体系化しなかったまんが表現における「映画的演出」を定型化し体系化したのは石森章太郎であり、1961年に発表した「竜神沼」*14を作例にその演出方法を映画用語を用いて解説した『少年のためのマンガ家入門』において、まんがにおける映画的演出は戦後まんがの基本的手法として認知され、その影響下にいわゆる「24年組」など団塊世代のまんが家から、大友克洋ら「ニューウェーブ」及び「おたく」第一世代に相当する1960年前後産まれまでのまんが家たちが「映像的手法」を所与のまんが形式として習得することになる。

図3 藤井一郎[活動漫画!! ロイドの冒険 化物退治の巻](尾崎秀樹他監修[少年小説体系 別巻1 少年漫画集]、三一書房、1988年、p284)より引用

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図3 藤井一郎[活動漫画!! ロイドの冒険 化物退治の巻](尾崎秀樹他監修[少年小説体系 別巻1 少年漫画集]、三一書房、1988年、p284)より引用

図5 田河水泡[猛犬連隊のらくろ一等兵](田河水泡[のらくろ大全集]講談社、1967年、p91)より引用

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図5 田河水泡[猛犬連隊のらくろ一等兵](田河水泡[のらくろ大全集]講談社、1967年、p91)より引用

図4 柳瀬正夢[貨物自動車](みづゑ、1925年7月号)

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図4 柳瀬正夢[貨物自動車](みづゑ、1925年7月号)


図6 手塚治虫[幽霊男/勝利の日まで 手塚治虫過去と未来のイメージ展 別冊図録](朝日新聞社、1995年、p225)より引用

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図6 手塚治虫[幽霊男/勝利の日まで 手塚治虫過去と未来のイメージ展 別冊図録](朝日新聞社、1995年、p225)より引用


4−3 石森における「映画的手法」の意味


 「竜神沼」において石森が採用したと思われる手法については既にその概略を別の場所で述べているが*15、本論が報告書であることを配慮し、再度整理するなら、それは(1)コマ内の画面構成、(2)コマとコマの統辞の2つの水準で確認できる。
 (1)はコマを単体で「映画らしく」見せる工夫であり、クローズ・アップ、ウェストショット、ミディアムショット、ニーショットといった映画の基本的な「ショット」の概念に忠実にキャラクタ―のトリミングがなされること、コマ内が映画の構図でしばしば採用される、左右に二分割ないし三分割され、その1スペースに構図上の比重がある構成(図7)、あるいはコマの大きさや形がパンやスクロールといったカメラワークを喚起させるなどの手法からなっている。
 このような(1)の工夫によって「竜神沼」の1コマは原則としてまんがの1カットに近似した印象を読者に与える。この「カット」化したコマを編集=モンタージュするのが(2)の水準である。特に少女の内的な怒りを神楽の面及び炎にシンボライズさせ、少女の顔とモンタージュする手法(図8)はЭйзенштейнが『ストライキ』(1924年)のラストにおいて示した、食肉処理場の血まみれの牛と軍隊が労働者に一斉射撃を加えるカットが交互にモンタージュされる手法と同一のものであり、またクライマックス近くの2つのシークエンスが同時進行し、それぞれのシークエンスに属するカットを交互にモンタージュする手法を含め、教科書的ともいえる「モンタージュ」的手法が多用される*16
 こういった2つの水準での「映画らしさ」の設計に依って「竜神沼」の任意の1ページ(図9)は映画の絵コンテ形式にほぼ「逐語訳」できる(図10及び図11)。戦後まんが史における石森の功績の1つはこのような「映画的手法」の確立と啓蒙にあると大塚は考える。

図7 石森章太郎[竜神沼](朝日ソノラマ、1967年、p40)より作成

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図7 石森章太郎[竜神沼](朝日ソノラマ、1967年、p40)より作成

図9 図5に同じ。p31より引用

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図9 図5に同じ。p31より引用

図8 図5に同じ。p40より引用

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図8 図5に同じ。p40より引用


図10 図9より作成

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図10 図9より作成

図11 図9より作成

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図11 図9より作成



4−4 映像的手法所得のカリキュラム
 

 このようにまんがの演出論とは映画との互換性を相応に持ち、また、アニメーションと映画においてもWalt Disneyのようなフルアニメーションではなく、作画枚数を極端に減じ、静止画やカットの使い回しを創成期に採用した戦後のテレビアニメーションにおいては必然的にカットのモンタージュ的編集に特徴があるなど、まんがと同様、映画的演出との互換性は高い。
 こういった三領域の演出上の近似性が戦後のまんが表現の技術上の特徴の基礎をなしているというのが大塚の主張である。そのことが日本のまんが表現において、宮崎駿、安彦良和、大友克洋、石井隆らまんが、映画、アニメーションに横断的に関わる創り手の存在を可能にしていると考えられる。以上のような考え方に立ちまんが及びアニメーションの専攻を希望する学生の全て、及び映画、CGを専攻する学生の一部に対して映画的演出を習得するための「まんが絵コンテ」の制作を課している。メディア表現学科は1つの学科の中にまんが領域、アニメーション領域、映画領域を学びうる環境があり、学科の特性を生かしうるとも判断した。
 具体的には石森章太郎が『少年のためのマンガ家入門』において作例とした「竜神沼」を映画の脚本に起こし、それを学生に配布して、各自でまんがの絵コンテにしていく形をとる。「竜神沼」が過度に映画的なコマの統辞を行っているため、コマのつなぎについては必然的に「映画的」にならざるを得ない脚本であり、また、「クローズ・アップ」などショットの指定も含む書式とした。この脚本に基づき作成されたまんが絵コンテを先に述べたコマ内での「映画らしさ」の構成の妥当性、及び、コマとコマのモンタージュの2つの水準を中心に学生の作品を基に指導していく。その詳細については既に述べたので繰り返さないが*17、まんが表現の場合、これに加えて「見開き」を単位とする構成があることも指導する。
 このような実習を経た後、更にまんが専攻を希望する学生には実写映画作品を全編、まんがの絵コンテとする実習を行うことで「映画演出」をまんが表現に自ら落し込む実践を行う。
 07年度はその延長で、2年生を対象に自主ゼミの形で「竜神沼」全編を映画の絵コンテに「逐語訳」的に置き換え、その一部分をまんが専攻の学生によって「映画」として撮影するという実習が進行中であり、更に将来的に同様の手続きで「竜神沼」の同一のカットのアニメーション化を試みることで、3つの領域の演出手法上の互換性と差異が更に実践的に確認できると考える。この研究及び教育実践については後日、発表する。
 このような一連の実習は、それ自体、戦後まんが史における映画的手法の成立の過程の追体験であり、座学による「方法の歴史」の確認と対にして行うことで、まんが史は学生たちに「身体化」されると大塚は考える。
 まんがアニメーション表現については、その起源を中世の絵巻物などの伝統や表意文字としての漢字と表音文字としての仮名の組み合わせからなる日本語の特性が「絵」と「文字」の組み合わせからなるまんがを発展させたといった主張など、その手法をいたずらに「伝統」化する俗論が公然と語られるが、現在のまんが表現の方法上の来歴を正確に検証し、それを教育カリキュラムに反映させることがまんが教育には不可欠な視点である。「ジャパニメーション」と無根拠に叫ばれるまんがアニメーション表現の戦後日本型類型の抽出と方法上の進化もまた以上の手続きをもってなされるべきであり、「伝統」論からの冷静な決別がない限り、方法の教育は不可能であると考える。(文責・大塚英志)


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