図1 第1回瀬戸内現地調査のルートマップ(作成:齊木崇人、宮代隆司、任亜鵬)

Larger

図1 第1回瀬戸内現地調査のルートマップ(作成:齊木崇人、宮代隆司、任亜鵬)


写真1 海から見た阿武兎観音(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真1.海から見た阿伏兎観音(広島県福山市)
(写真:齊木崇人、2006.2)


写真2 走島にある村上神社(写真:石渡雄士、2006.2)

Larger

写真2 走島にある村上神社(写真:石渡雄士、2006.2)


写真3 走島・海に面した祠(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真3 走島・海に面した祠(写真:齊木崇人、2006.2)


写真4 直島の工場地帯(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真4 直島の工場地帯(写真:齊木崇人、2006.2)


図2 朝鮮通信使の航路図(Google Earthデータ上に航路を記載)

Larger

図2 朝鮮通信使の航路図(Google Earthデータ上に航路を記載)


写真5 西側から見た男木島(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真5 西側から見た男木島(写真:齊木崇人、2006.2)


写真6 本島・笠島集落のまちなみ(写真:宮代隆司、2006.2)

Larger

写真6 本島・笠島集落のまちなみ(写真:宮代隆司、2006.2)


写真7 本島・笠島集落のまちなみ(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真7 本島・笠島集落のまちなみ(写真:齊木崇人、2006.2)


図3 第2回調査ルートマップ(作成:齊木崇人、宮代隆司、任亜鵬)

Larger

図3 第2回調査ルートマップ(作成:齊木崇人、宮代隆司、任亜鵬)


写真8 土地均分が発達した佐柳島(写真:齊木崇人、2006.3)

Larger

写真8 土地均分が発達した佐柳島(写真:齊木崇人、2006.3)


図4 シーボルトが見た江戸時代の瀬戸内(出典:シーボルト『日本』図録第二巻 第19図)

Larger

図4 シーボルトが見た江戸時代の瀬戸内(出典:シーボルト『日本』図録第二巻 第19図)


図5 シーボルトが見た日比(現・岡山県玉野市)の製塩所(出典:シーボルト『日本』図録第二巻 第20図)

Larger

図5 シーボルトが見た日比(現・岡山県玉野市)の製塩所(出典:シーボルト『日本』図録第二巻 第20図)


写真9 本島・塩飽番所(写真:木下怜子、2006.3)

Larger

写真9 本島・塩飽番所(写真:木下怜子、2006.3)


写真10 男木島の集落(写真:齊木崇人、2006.2)

Larger

写真10 男木島の集落(写真:齊木崇人、2006.2)


写真11 鞆のまちなみ(写真:齊木崇人、2006.3)

Larger

写真11 鞆のまちなみ(写真:齊木崇人、2006.3)


写真12 尾道(写真:齊木崇人、2006.3)

Larger

写真12 尾道(写真:齊木崇人、2006.3)


写真13 明石海峡大橋と淡路島(写真:齊木崇人、2006.3)

Larger

写真13 明石海峡大橋と淡路島(写真:齊木崇人、2006.3)


図6 第3回調査ルートマップおよびシーボルトが通った航路(作成:齊木崇人、宮代隆司、木下怜子)

Larger

図6 第3回調査ルートマップおよびシーボルトが通った航路(作成:齊木崇人、宮代隆司、木下怜子)


写真14 小佐木島の回復した緑(写真:齊木崇人、2006.8)

Larger

写真14 小佐木島の回復した緑(写真:齊木崇人、2006.8)


写真15 来島海峡第一大橋(写真:齊木崇人、2006.8)

Larger

写真15 来島海峡第一大橋(写真:齊木崇人、2006.8)


写真16 平郡島付近・伊予灘の風景(写真:齊木崇人、2006.8)

Larger

写真16 平郡島付近・伊予灘の風景(写真:齊木崇人、2006.8)


写真17 下蒲刈島のガンギ(写真:齊木崇人、2006.8)

Larger

写真17 下蒲刈島のガンギ(写真:齊木崇人、2006.8)


写真18 村上水軍の拠点の一つであった能島(写真:齊木崇人、2006.8)

Larger

写真18 村上水軍の拠点の一つであった能島(写真:齊木崇人、2006.8)

2.調査

2−1.第1回調査(2006年2月4日〜6日)

2−1−1.調査の概要
 2006年2月4日〜6日の間、瀬戸内海沿岸諸島の現状把握を目的とする調査を実施した。調査メンバーは、齊木崇人、山之内誠、上原三知、李勝煥、宮代隆司(神戸芸術工科大学)、石渡雄士(法政大学)、村上寛(マリーンシャトル船長)の計7名。行程は、2月4日に尾道港を出発し、阿伏兎岬-鞆の浦-走島-白石島、5日に白石島-北木島-真鍋島(岩坪)-佐柳島-高見島-広島-本島(本島)-本島(笠島)-予島-櫃石島-大槌島-直島-男木島、6日に男木島-女木島-豊島-小豊島-小豆島(池田)-小豆島(橘)-坊勢島-家島を調査し、神戸港に入港した。

2−1−2.調査後のミーティングによる作業仮説
(1)瀬戸内海の集落同士の関係性―宗教施設と軸線
 阿伏兎岬の阿伏兎観音など、島の突き出たところに宗教施設があるのが確認できた。これは一種の目印のようなものだ。また、一般的にまちの形成の古いところに宗教施設がある。各島で古いところから現代まで形成されてきた線を辿ってみたい。(山之内)阿伏兎観音のような宗教施設は島を認識するポイントとなっている。島同士のお互いの認識はどうなのか?四国側が表か、広島側が表か?(齊木)四国側が古いと言われている。海賊などは「土佐廻り」と言った。(上原)
 また、当時と今では船の移動のスピードの違いがある。スピードが上がったことで忘れられた空間観というものがあると思う。(齊木)瀬戸内海は地図だけで見ると島々が独立しているように見えるが、実際は重なり合っているということが解った。そして、歴史が古いところほど地形を読んでいる。(石渡)
 島へ接岸する時に見える山から海への軸線が面白いと感じた。(李)まさに海と陸が織り込まれた感じだ。走島の村上神社と海の軸線は強い。(齊木)そのような軸線を設ける例は多い。(山之内)その軸がどちらの方向に向いているか、というのも重要な点。自分たちのルーツに向ける例は聞いたことがある。瀬戸内が持つ軸の関連性は重要である。(齊木)
――2月4日(土)午後17時15分〜/旅館お多福(白石島)にて
参加者:齊木、山之内、上原、石渡、李、宮代(記録)、村上

(2)シータクシーの提案1
 様々な島が自由に廻れるシータクシーをもっと発達させ、漁もタクシーもできるシステムがあれば人の動きがもっと活発になると思うが。(齊木)それが便利なら港も使われる機会が増えるだろう。(村上)さらに、危険回避のためにナビが駆使されれば船が頻繁に走っても問題はないだろう。(齊木)
――2月4日(土)午後17時15分〜/旅館お多福(白石島)にて
参加者:齊木、山之内、上原、石渡、李、宮代(記録)、村上

(3)朝鮮通信使の航路や当時の景観の復元
 朝鮮通信使が巡ったルートを確認したい。資料から復元することも可能だろう。(齊木)図を用いて当時の景観の復元を試みても面白いと思う。(山之内)また、CGを使って、朝鮮通信使が巡った当時の土地利用を復元することもできる。現代の空撮と、戦後撮られた米軍の空撮、そして朝鮮通信使の巡ったルートを、スケールを合せて合成してみよう。空と海両方からの調査を行いたい。(齊木)
――2月4日(土)午後17時15分〜/旅館お多福(白石島)にて
参加者:齊木、山之内、上原、石渡、李、宮代(記録)、村上

(4)瀬戸内海の多様な集落―伝統的な集落や工業地帯
 集落では男木島が一番印象的だった。佐柳島では少しだけ岩が剥き出していたが縦割りの樹林が復元されているのが確認できた。直島は岩肌が剥き出しの状態であった。(上原)笠島、直島は寂し気なところだった。安藤忠雄の植樹のプロジェクトを聞いていたので、もっと豊かな自然があるとおもっていたのだが。(李)直島は禿山が目立っていた。(山之内)その上、公害で皆が住みたくない島になっている。(齊木)
 今日は海から見える工場地帯の写真を沢山撮った。どこから見ても工場地帯を目の当たりにした。(齊木)直島以外にも工場を持つ島はあるのか?(石渡)直島は珍しい例だろう。向島もそうだ。工場があることによって労働者のための住宅も目立っている。(齊木)そうした労働者の住宅は機械的な配置で建てられている。(山之内)
 直島には近代以前にも人は住んでいたのだろうか?(石渡)直島には古い集落が確認できる。(齊木)ならば、直島の近代からの変化を見てみたいと思う。(石渡)それは恐らく既往研究があるはずだ。(齊木)
 男木島には集落そのものの魅力がある。(山之内)男木島の集落はなぜここまで密度の高い集落になったのか。それは、船が寄り「ちょっと一泊」というポジションに島があるからだろう。(齊木)
 島々から見ると、高松は大都会だ。高松は今までは田舎だと思っていたが。また、本島はこの近辺の中心に位置するのに、空き家だらけだった。(山之内)今日一番印象的だったのは、本島の笠島集落だ。感激した。人が住んでいないのにあれだけ整備したのは最近見ない。(齊木)笠島集落は漁村らしくない外観だ。(山之内)外観は町屋に近い。(齊木)そう。沿岸部ではない、街中の雰囲気を持っている。同じ沿岸部の集落とも違う。男木島や真鍋島の岩坪集落とも違う。(山之内)
 手島には上陸したかった。手島には分散した集落が船上から確認できた。瀬戸内の同じ漁村でも集まるというわけでもない。下の住まいが上の住まいを支えている集落の例もあった。それでは、空き家が増えると壊れる。手入れをしなくてはならない。積み木崩しのようなものだ。(齊木)
 走島や真鍋島などの小さな島の中に札所巡りがあるのを確認できた。金毘羅さんも祀ってあった。参詣があり、通りがかるからであろう。札所の配置にもルールがあるかもしれない。(山之内)もしかすると、島が完結した世界として捉えられているのかもしれない。八幡さんも戎さんもある。どこの八幡さんを持って移ってきたかということも確認したい。人が移動しながら集落が増えているのだろう。また、集落がどちらに向いていたかといえば、以前住んでいた集落に向けている場合もあるだろう。(齊木)
――2月5日(日)午後17時40分〜/民宿せと(男木島)にて
参加者:齊木、山之内、上原、石渡、李、宮代(記録)、村上

(5)シータクシーの提案2
 今回の調査で海が別ものに見えてきた。歩いていけるようにも感じる。これは船長の村上さんのお蔭だ。昔でも船を持っている人は自由に動いていたに違いない。帆船を漕いでいた時代から考えると、エンジンの出現は大革命だったろう。科研の成果の案としては、まず、海上タクシー設立のサポートをする会社を検討し、ネットワークできる可能性のあるものを模索する。地域活性化への期待が持てるかもしれない。とりあえず、一週間の試験走行をしてもいい。また、2007年以降開催が予定されている神戸ビエンナーレとの連携も考えられる。それには予算立てが必要だろう。(齊木)
――2月5日(日)午後17時40分〜/民宿せと(男木島)にて
参加者:齊木、山之内、上原、石渡、李、宮代(記録)、村上

2−1−3.まとめ
 第1回調査では、瀬戸内海の多様な伝統的集落の姿に触れそのルーツを読み解くこと(1、4)や、シータクシーの提案(2、5)、江戸時代の景観の復元(3)という作業仮説が示された。


2−2.第2回調査(2006年3月21日〜23日)


2−2−1. 調査の概要
 2006年3月21日〜23日の間、第1回調査に引き続く瀬戸内海沿岸諸島の現状把握と、それに関連する他事例等の情報交換を目的とする調査を実施した。調査メンバーは、齊木崇人、上原三知、李勝煥、宮代隆司、姜燕、周丹、任亜鵬、木下怜子(神戸芸術工科大学)、地井昭夫、高新、藤井浩志、山本剛志(広島国際大学)、陣内秀信、石渡雄士、八木邦果(法政大学)、村上寛(マリーンシャトル船長)の計16名。行程は、3月21日に尾道港を出発し、鞆の浦-走島-白石島、22日に白石島-北木島-真鍋島(岩坪)-佐柳島前-本島(本島)-本島(笠島)-直島(宮ノ浦)-直島(本村)-男木島、23日に男木島-女木島-豊島-小豊島-小豆島(小江・四海)-小豆島(大部)-坊勢島-家島(家島)-淡路島(岩屋)を調査し、神戸港に入港した。

2−2−2.調査後のミーティングによる作業仮説
(1)瀬戸内海のかつての農業景観と土地利用
 ジェノバの近くの農業景観はレモンを栽培していて段々畑がとてもきれい。瀬戸内海の村々でも段々状になっているところが確認できた。植生が豊かなのは、石灰岩系の乾いた土地だからだろう。人間が手をつけた農業景観と地形と植生がつくった農業景観は違う。瀬戸内の村々は、ジェノバ近郊と同じくらいきれいだったろう。(陣内)私は、瀬戸内の土地利用の歴史を調べてきたが、その歴史文化景観は今とは全然違う。特に注目したいのは、漁民や水軍、塩焼きと関連する尾根から海までが均等割りになった土地割りおよびその割替制度が存在したことである。このような共有地の平等利用によって、広葉樹の森が残るなど多様な景観が維持されたのだと思う。また、神の島である宮島にもマツ林が多かったことも特徴といえるだろう。(上原)今の瀬戸内の植生は貧困そのものだ。杉と松しかない。また、中途半端な人工林ばかりだ。昔はもっと手が込んでいた。山火事も多い。(地井)
――3月21日(火)19時05分〜/旅館 お多福(白石島)にて
参加者:齊木、地井、陣内、上原、石渡、八木、高、藤井、山本、李、宮代(記録)、姜、周、任、木下、村上

(2)瀬戸内海と地中海の比較
 陣内先生は「瀬戸内と地中海は似ている」と仰っていたが、どのようなところが似ているのか?(上原)地中海と瀬戸内は大きさが違うが、共通点はある。まず、すぐ近くに丘と山がある。入り江には大きな港町がある。広島市は例外だが瀬戸内には大きな川が無い。囲われている感じがする地形である。逆に、ヨーロッパの北部は平らな地形である。地中海沿岸とは鳥瞰図の違いがある。また、力のある国は北部にあった。そして、地中海は古代からの流通ルートがある。フェニキュア人もそう。また地中海を隔てて違う国同士が存在し、敵対・対立したり、結ばれたりという二面性があった。瀬戸内は同じ国なので、その辺には大きな違いがある。(陣内)
 しかし、瀬戸内には島同士の競い合いがあったのではないか?(齊木)その「競い合い」をもう一度掘り起こすことが必要である。違うキャラクターをもった人間同士は発展する。(陣内)
――3月21日(火)19時05分〜/旅館 お多福(白石島)にて
参加者:齊木、地井、陣内、上原、石渡、八木、高、藤井、山本、李、宮代(記録)、姜、周、任、木下、村上

(3)瀬戸内海のかつての交通とシータクシーNPOの事例
 瀬戸内が渤海などの海の向こうを繋いでいたのと同様、地中海は大西洋からアメリカまでを繋いだ。(齊木)ベネツィアで会議があった時、主だった参加者はイタリア人だったが、アジアからの参加者は韓国と日本だった。会議では遣唐使や朝鮮通信使の話題になり、瀬戸内と地中海の比較の話題にもなった。その時に東アジアを船で結ぶネットワークを主張した。今は飛行機や鉄道に限られており、移動手段の選択肢が貧困である。(陣内)移動手段の獲得をしなくてはならない。今は海が使いこなされていない。(齊木)本当にそう。今日海上でみたのは漁船や貨物、それからプレジャーボートが一艘くらいだった。(陣内)また、定期船が少ない。船長の村上さんとルートと時間を計っていたが、シータクシーのNPOを設立し、ゲリラ的な組織をつくりたい。(齊木)
 大阪ではそういったNPOができたらしい。(陣内)NPOは新潟でも検討されているらしいが。(齊木)雁木タクシーというシータクシーのNPOがあったと思う。(地井)そのNPOには熱心なおばさんがいてオープンテラスのカフェの実現に動いた。広島市はそういった点では先端を行っている。水上レストランの実現もそうだ。広島市にはもともと牡蠣船はあったが。それには国交省と河川局が大きく左右している。名古屋の堀川ではそういった社会実験が行われた。東京は港湾局と河川局の規制がやわらかい。品川の水上レストランはそれで実現した。(陣内)
――3月21日(火)19時05分〜/旅館 お多福(白石島)にて
参加者:齊木、地井、陣内、上原、石渡、八木、高、藤井、山本、李、宮代(記録)、姜、周、任、木下、村上

(4)江戸期に構成された風景の再評価と、明治維新を契機とした社会的・文化的衰退
 規制緩和の行き着く先は江戸のイメージだ。(地井)やはり江戸ですね。(陣内)明治維新のやり直しをしなくては。小泉自民党には望むべくもない。(地井)
 江戸から明治の変化は大きかったと思う。(齊木)明治に入っても、明治10年代までは活発だった。産業も明治20年代は活発だった。遊郭も明治20〜30年代は活発。そういった面で言えば、明治10年代は江戸文化のピークだった。(陣内)また、田舎に行くほど明治維新での変化は少なく、土地利用や所有形態は継続されたと考えられる。(上原)東京は1960年代までは水の都だった。これは江戸時代の名残である。近代の蒸気船などもそうだ。(陣内)私は、昭和27年から昭和34、5年の高度経済成長期前には石炭を積んでいたが、阪神間には船の切れ目が無かった。(村上)当時は船の生産や物流などを動かす人たちのストックがあった。(齊木)
 瀬戸内の変化と言えば、小学校5年生の時、東京から「特急あさかぜ」に乗ったが、その時はまだ瀬戸内沿海に塩田があった。(陣内)瀬戸内の塩田は昭和30〜40年代まであった。(地井)現在の瀬戸内は、塩田を潰して工場を建てて海が汚染される、という二重のダメージを負っている。シチリアのカルチュアルランドスケープおいて塩田は一つの要素になっている。シチリアの西の方にトラウバというところがあるが、そこでは塩田が現役で活躍している。そこで生産される塩は日本にも輸出され、グルメが嗜好している。シチリアのきれいな風景は古典的でもある。(陣内)塩田は高砂や姫路にもあった。(齊木)痩せ地にしか生えない松林と塩田は深く関連しており、かつての瀬戸内海にはそのような明るく乾燥した風景が一般的であった。(上原)
 瀬戸内海の風景の変遷を見よう。(陣内)ならば、単なる海と陸の話ではなく、断面と3Dをおこして少し俯瞰してみる。同時に土地利用の変化もみる。それは、江戸時代の豊かな風景や朝鮮通信使やアメリカ人がみた風景だ。抜けているところは想像で補う。これで作業の一つの目標が見えてきた。(齊木)ローマ大学では、カルチュアルランドスケープとは自然と人間が創りだしたものとしている。友人が住んでいるアシリのセント・フランチェスコでは丘の上のまちに価値があることは解っている。しかし、それだけではなく、周辺の植生や集落にも価値付けている。中世には集落の力が変わる。教会、修道院、ブドウ、オリーブなど。経済力は無いが、中世の方が細かい芸術力を持っている。それとは逆に、近代はざっくりとしている。旧街道など、歴史的集積が、都市を包む周辺にある。そこから理屈づけをして世界遺産にしている状態だ。(陣内)
――3月21日(火)19時05分〜/旅館 お多福(白石島)にて
参加者:齊木、地井、陣内、上原、石渡、八木、高、藤井、山本、李、宮代(記録)、姜、周、任、木下、村上

(5)瀬戸内海の伝統的なまちの空間と日本の近代空間
 日本は資料が豊富だと思う。明治期の地籍図や、宮本常一による昭和初期の写真もそうである。(上原)それを用いて逆価値化が実験できるかもしれない。(齊木)
 瀬戸内のまちは、一周遅れのトップランナーになれる可能性もある。この5年くらいで復活の兆しが見られる。今までの伝統的なまちに住む人がもっていた「こんなところに住むのは恥ずかしい」という価値観がひっくりかえってきていることもある。観光客もいるし、新市街から夜遊びにくる人もいる。周辺から来る若者もいる。さっき、福山に来たのに鞆に行かなかったという「不届き者」がいたね。「新市街と旧市街」「都市と農村」にはつながりがない。すぐにan-non族を対象にしてしまう。また、楽しめる場所にはリピーターがつく。レストラン、呑み屋、散歩する楽しい場所とか。(陣内)まちの持っているスケールは大きな要素である。尾道はいい例だ。周辺にできた新しいまちとの関係も重要である。陣内さんがおっしゃった「5年」というのは興味深い。そこに世代の求めるものがあるのかもしれない。(齊木)豊かになれば行き着く先はそこだ。(陣内)
 ニュータウンは目標がない。(齊木)逆に、鞆は世代を超えて楽しめる要素がある。それは近代空間が敵わないくらいのものだ。しかし皆知らない。(陣内)
――3月21日(火)19時05分〜/旅館 お多福(白石島)にて
参加者:齊木、地井、陣内、上原、石渡、八木、高、藤井、山本、李、宮代(記録)、姜、周、任、木下、村上

2−2−3.まとめ
 第2回調査では、江戸期に構成された風景の再評価と明治維新を契機とした社会的・文化的衰退(1、4、5)や、瀬戸内海と地中海の比較(2)、シータクシーの提案(3)、瀬戸内海のこれからのネットワークづくり(6)、という作業仮説が示された。


2−3.第3回調査(2006年8月3日〜5日)


2−3−1.調査の概要
 2006年8月3日〜5日の間、瀬戸内海沿岸諸島の現状把握を目的とする調査を実施した。調査メンバーは、齊木崇人、上原三知、宮代隆司、周丹、王曄、任亜鵬、木下怜子、岩田谷由香、奥理津子(神戸芸術工科大学)、村上寛(マリーンシャトル船長)の計10名。行程は、8月3日に尾道港を出発し、生口島(瀬戸田)前-弓削島-岩城島-伯方島(伯方)前-能島-西瀬戸自動車道(来島海峡第一大橋)下-大島(名駒)、4日に大島(名駒)-来島前-岡村島-大崎下島(御手洗)-斎島-下蒲刈島(三之瀬)-倉橋島(鹿島)前-倉橋島(鹿老渡)前-津和知島-二神島-屋代島(油宇)前-屋代島(小泊)-沖家室島前-平郡島(東港)、5日に平郡島(東港)-平郡島(西浦)-八島-祝島前-牛島-上関-室津-宮島(厳島神社)前を調査し、広島市(宇品港)に入港した。

2−3−2.調査後のミーティングによる作業仮説
(1)シーボルト(Philipp Franz von Siebold:1796〜1866)が見た風景の再確認
 今回の調査では、これから巡るルートを選ぶにあたり、シーボルトが通ったところに着目した。その中で、変化したところと変化していないところを確認していく。特に、変化していないところに着目する。言い換えれば、「変わらずに済んだところ」だろう。(齊木)岩城島には畑が沢山残っていることが確認できている。(上原)
――8月3日(木)13時10分〜/尾道駅前桟橋にて
参加者:齊木、上原、宮代(記録)、周、王、任、木下、岩田谷、奥

(2)瀬戸内海の自然の回復
 佐木島と小佐木島の緑が回復していることに感動した。同時にこれまで瀬戸内海を汚してきたのだということもわかった。卒論当時、赤潮や松枯れに直面していた瀬戸内海を何とかしたいと思っていた。その時は野島や走島などを調査した。今回の調査により、当時と比べて回復していることが確認できた。瀬戸内の自然に対する人間の意識は弱まっているかもしれないが、自然は勝手に回復している。また、今日は竹林をよく見たが、そこはかつて畑だったはずだ。(齊木)みかん畑の跡も見えた。また、山林だったのか農地だったのか、どちらかわからないところもある。(上原)それはJAで調べれば、山林から畑に変わった時期が確認できるだろう。(齊木)
――8月3日(木) 18時40分〜/民宿名駒(大島)にて
参加者:齊木、上原、宮代(記録)、周、王、任、木下、岩田谷、奥、村上

(3)瀬戸内海のシークエンス景
 尾道から出てすぐに小さい漁船が浮いていたが、その小ささが瀬戸内のスケールに合っていると感じた。来島海峡第一大橋のスケールに関しては、遠景だと丁度よい感じでも、近景だとやはり大きいなと感じざるを得なかった。(木下)どこに身を置くかで同じ風景でも変わって見える。村上さんは橋を是非とも我々に見せたかったのだと思う。とにかく行ってよかった。(齊木)今日は小佐木島や能島など小さい島を沢山見た。交通手段は船だけしかない。船が無ければ動くことができない。それによって島に神秘性が生まれるのかもしれない。小さな島の中に建築があり、それは伝説の蓬莱島のような感じだった。(任)
 近藤先生は「地中海は単調だが、瀬戸内海はバラエティに富んでいる」と述べている。(上原)しかし、今日巡ってきたところは島があるのが当たり前という感じだった。鞆以東は島があるところと無いところがある。そこには一種の風景のリセットがある。塩飽や播磨灘を越えて現れる家島などがそう。今日はダラダラと続く風景であったともいえる。(齊木)島の後ろに別の島が現れてくるのはとてもきれいだった。(木下)
 尾道を基点にして東と西の風景の比較を試みたい。風景の節目があるはずだ。能島のような絞り込まれた風景、そして灘のように広がりのある風景。今日の調査は新鮮だった。何らかの形で風景を空から見ることができたような感じもする。(齊木)今ここにあるテーブルが海だとしたら、皿は島、箸は橋。この中だけの風景でも角度によって見え方が違ってくる。今日の風景はそんな感じだった。(周)
――8月3日(木) 18時40分〜/民宿名駒(大島)にて
参加者:齊木、上原、宮代(記録)、周、王、任、木下、岩田谷、奥、村上

(4)シーボルトと宮本常一と我々の瀬戸内海風景の体験の比較
 シーボルトには瀬戸内の風景を実際に目にする感動というものがあったと思う。彼にとっては異文化だったので、珍しいものばかりで、それを文章やスケッチで表現したかったのは非常に理解できる。だが、宮本常一は日本人でありながら、日本が工業化する中、写真を撮りつづけた。そのすごさを感じる。(上原)高度経済成長期に比べて島の禿山はだいぶ回復してきている。黒髪島なども青々としていた。(村上)宮本常一の凄さは、今我々が見るであろうことを理解していたかのように、記録をとり続けていたところだろう。(齊木)
 宮本常一はそのとき自分が写している風景が、将来無くなってしまうことを予感していたのだと思う。それを日本人の視点で行ったところが特異だ。(上原)シーボルトが日本を訪れた当時は産業革命が始まっており、欧州では環境の悪化が目に見えていたのだと思う。しかし、シーボルトはオランダを愛していたが故に、環境の悪化を危惧し、オランダに当時の日本の豊かさを伝えようと思ったのではないか?また、同様に、宮本常一も故郷である瀬戸内海を愛していたが故に、工業化によって瀬戸内の環境が悪化していくのを憂いていたのではないか?そして、将来歴史的にみても、瀬戸内の環境が復活すると思っていたのではないか?今回の収穫は、島が美しくなっているのを確認できたことだ。島が美しくなるということは、同時に海も美しくなる。自分自身が、35年前の赤潮の海を知っているだけに、そのように感じる。(齊木)
 宮本常一の著作を読むと、今とほとんど変わらないところもある。また、宮本が瀬戸内の住民に講演を頼まれたときのエピソードとして、島民の一人が講演の御礼をしようとしたが、生憎宮本が乗っていた船は出港していた。しかしその島民は船まで泳いで宮本に贈り物を届けたという。我々も前回の調査で訪れた小豊島で、安全を祈願してくれた船大工の島民が、木彫りの船のお守りをくれた、という経験をしている。また、我々が船で港に着くときは、その音を聞いた島民の視線を感じる。(上原)その話は瀬戸内の人々のコミュニケーション能力の高さを示していると思う。突然我々が島を訪れても、拒否されることはない。現代の日本が瀬戸内から学ぶことは沢山あるのだと思う。(齊木)例えば、ここの民宿(大野屋)のおじさんは私の船のことを知っていた。悪いことはできないものだなあと思った。(村上)
――8月4日(金)19時30分〜/民宿大野屋(平群島)にて
参加者:齊木、上原、宮代(記録)、周、王、任、木下、岩田谷、奥、村上

(5)昔の航海の技術から学ぶ
 海の近くにあんなに長時間いたことは無かった。波の打ち方や潮の流れの違いが理解できたと思う。(岩田谷)瀬戸内海は東西両方向から潮が満ちてくる。今日の出発地である尾道は丁度瀬戸内海の真ん中に位置する。昼までは潮に乗って航海できた。これは珍しいことだと思う。波の音や海の表情など、今まで知らなかったことも沢山あったと思う。海と空、雲、島、それらが時間に応じて変化して見える。また、自分たちも船で動いているが、まるで島が動いているような感覚になることもあったと思う。(齊木)
 海ばかりを見ていたら飽きるかと思ったが、そうではなかった。風景が変わるので楽しめた。(岩田谷)そのことはシーボルトも述べている。しかし、現代の日本人はその部分を楽しめていないと思う。海外にばかり目が行っているというのもある。だが、環境への関わりや自分と対話できる時間が持てることが本当の旅なのではないか。次回の調査はできたらゆっくり回りたい。潮を読みながら進んでいくのもいい。シーボルトは1日10マイル平均で進んでいたと思うが、恐らく潮を読みながらだったと思う。また、この方法は人力で船を漕がせていた当時は経費の削減にもつながったはずだ。次の科研では、太陽電池や風力発電といった現代の技術と、潮流を読むというプリミティブな航海の提案をしてみよう。(齊木)
――8月4日(金)19時30分〜/民宿大野屋(平群島)にて
参加者:齊木、上原、宮代(記録)、周、王、任、木下、岩田谷、奥、村上

2−3−3.まとめ
 第3回調査では、シーボルトや宮本常一らの体験した風景と現在の風景(1、2、4)や、シークエンス景(3)、航海についての提案(5)、という作業仮説が示された。


2−4.3度の調査を経て


 第1回〜第3回の瀬戸内現地調査を経て、明治維新を契機とした社会的・文化的衰退(2-2-2(1)(4)(5)、2-3-2(2)(4))、江戸期に構成していた風景の再評価(2-1-2(1)(3)(4)、2-2-2(2)(6)、2-2-3(1))、瀬戸内沿海諸地域を結ぶシータクシーNPO設立に向けてのプロポーザル(2-1-2(2)(5)、2-2-2(3)、2-3-2(3)(5))という3つの作業仮説を明らかとした。



 HOME

 page top