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図5 カタカリの基本ムードラ

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図5 カタカリの基本ムードラ



表1 カタカリの基本ムードラとそのシンボリズム

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表1 カタカリの基本ムードラとそのシンボリズム



図6 バリ舞踊の手のポーズ

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図6 バリ舞踊の手のポーズ

2 アジアにおける手の象徴的表現 -アジアの演劇から-

2-1 カタカリにおけるムードラの表現

アジアにおける手の表現は、日常的なサイン言語のような伝達を意図して用いられているばかりでなく、それを超えた象徴的価値をも獲得している。「マハーバーラタ」や「リグ・ヴェーダ」など手が伝える内容が舞踊の背景にあるからだとされている。とくに演劇的世界における手による多様な表現はその背後にある宗教的意味づけによって精緻に体系化され、洗練されている。インドのカタカリやオディッシー舞踊、インドネシアのバリ島の舞踊、中国の京劇、そして日本の能や歌舞伎などでは、手を用いた表現形態が高度に発達し、それらは単なる日常的なコミュニケーションや身振り言語の領域を超えて、複雑で深遠な意味世界をつくりあげている。
カタカリ(Kathakali)は、南インドのケーララ州でおこなわれている伝統的な古典舞踊劇である。この地方で古くからあった呪術的な芸能による神々の物語を基礎にしてできたクリヤッタムやクリシュナッタムにカラリパヤットという武術の要素が加わって、1500年頃に成立したとされている。インド古代叙事詩の「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」の神話的挿話を演じるが、独特の衣裳や化粧法、目の動きや足の躍動的な運びとともに、カタカリをもっとも特徴づけているのが、ムードラ(印相)による演劇的表現である。カタカリはドラムなどの打楽器を伴奏として男性のダンサーだけで演じられるが、劇中はせりふを用いないで、手による表現、ムードラ(Mudra)を中心にパントマイムだけでその内容を表現するのである。
インド演劇における手のしぐさ(hand gesture)は、ハスタ(hasta)と呼ばれることが多いが、目の動きとともに最も重要視されている。指、手のひら、手首によってつくりだされるハスタあるいはムードラは、ヴェーダ時代(紀元前1500年頃)から用いられたといわれ、後に仏教にもとりいれられた*6。 ハスタによってつくりだされるかたちは、目および顔の表情によってさらに生命力を与えられる。身体的表現として手だけが独立しているわけではなく、一連の連続した動作、所作のなかでこそムードラは生命力をもつのである。インドのダンサーは、手の表現でもっとも重要なのは手のひらであると考えて、観客に向かって手のひらを向けるのが特徴であるが、これは西洋の舞踊ではみられない。手のひらは、日本語で「たなごころ(手のこころ)」ともいわれ、人生を占う場所でもあるように、生命力の源泉であり、生命エネルギーが派生する身体部位でもある。
ハスタは、さらに片手だけのアサミュッタ(asamyutta)と両手でおこなわれるサミュッタ(samyutta)、さらに両手で異なるムードラをつくるミスラ(misra)に分類される。これらの基本的なムードラの順列と組み合わせ、顔の表情、一連の身体の動きが加わり、膨大な数の語彙が構成され、森羅万象を表現できるのである。たとえば、パタカ(Pataka)というムードラは、片手だけでは「昼」「行く」「舌」「鏡」などを表し、両手では「王」「太陽」「十分」などを表すことができる。それぞれの意味は、当然のことながら躍動的に演じられていく舞踊の文脈に依存している。
カタカリにおけるムードラは決して固定的ではない。言語を拒絶して身体動作、とくに手による動きだけで意味を伝えようとする以上、新たな概念に対しては新たにムードラがつくりだされる必要がある。もともとムードラは即興的に、あるいは個人の癖として用いられたものが、次第に形式化され、体系的に固定化されていったものらしい。また、劇においてはこれらのムードラが連続的に用いられるため、手は非常にダイナミックに展開する。舞踊としてのカタカリの生命力は、ひとつのムードラから別のムードラへと絶えず変化する緊張関係から生みだされるともいえる。
カタカリのムードラは、パタカ(Pataka)[幡]、ムシュティ(Musti)[拳]、ムルガシルサ(Mrigasirsha)[鹿の頭]など24の基本型から構成されている(図5)*7。これらのムードラにはそれぞれ多くの意味づけがなされ、多くの概念や行為を表現することができる。
これらの基本ムードラの形態に注目してみると、いくつかの種類に分けることができる。(表1)
1)オウムのくちばしを象ったスカツンダ(Sukatunda)、鶴の羽を表すハムサパクサ(Hamsapaksha)、鶴の顔を表すハムサシャ(Hamsasya)、鹿の頭のムルガシルサ(Mrigasirsha)など、日常の生活世界の周辺に住み、身近な存在である動植物の姿形を模倣したもの。
2)つかむ[ムドラキャ(Mudrakhya)]、つながって開く[カタカ(Kataka)]などの動作を表すもの。
3)礼拝を表現するアンジャリ(Anjali)のように象徴的な概念を表現するもの。  
これらのなかでも最初の身近に存在する動植物を模倣したムードラがもっとも多いことに気づかされる。ムードラという手による表現が、まわりの自然的世界との密接なつながりのなかで長い時間をかけて生成されてきたことをうかがわせる。また同時に興味深いことには、カタカリの舞踊を残しているケーララ州では、一般の人々の日常生活においても手による身振りが明瞭な特徴として重要な役割を残していることである。自分より低いカーストと話をするのを禁じられているバラモンたちは、宗教的儀礼の際には、手によるサイン言語を用いなければならない。日常生活で用いられる手振りのいくつかは、もちろんカタカリでも使われるが、それらはより様式化され、より広範な意味づけがなされている。それゆえに、舞台で演じられている舞踊の内容についての知識をそれほど持たない場合でも、その詩的な概念までとはいかなくとも、基本的な意味を把握できるのである。  
あらゆるものが宗教と関連づけられているインドでは、自然や人間の特性さえも宗教的な象徴とみなされる。それゆえ、ムードラは秘儀的な価値をもち、いくつかのムードラは神々の重要な行為に由来しているといわれている。たとえば、手のひらをまっすぐに伸ばしたパタカ(Pataka)は、ブラフマン神が勝利の雄叫びをあげながらパラブラフマに幡のように手を広げて挨拶したことからブラフマン神に結びつけられ、「幡(旗)」(flag)の記号とされる。パタカの親指を前に突きだしたアルダチャンドラ(Ardha-candra)は、シバ神が髪飾りの装飾として半月を望んだことからシヴァ神に、さらに握りこぶしのかたちのムシュティ(Musti)はヴィシュヌ神が悪魔のムドゥと闘うために握りこぶしを用いたことからヴィシュヌ神と結びつけられている。また、それぞれのムードラあるいはハスタは守護神あるいは守護聖人をもち、特定のカーストに属し、固有の色さえもつ*8。  
カタカリのような高度に発達した手の発話性は、さらに両手や目の動き、表情などをともなうことによってより完全なものとなり、ほとんど言語に代替しうるほどの伝達の機能をもつことになる。ムードラがもつこのコミュニケーション的な能力は、限られた例といえるかもしれないが、手が言語に匹敵する伝達能力をもつことの明白な証明ともいえる。しかし、ムードラは、単に言語の代替物として機能するだけではない。インドのすべての舞踊に共通するが、何らかの物語を説明する解釈的舞踊 <ヌリティア> では、ムードラはわれわれの会話と同様な言語的な価値をもっている。ダンサーは動作によって物語を観客に伝えるのである。これに対し、劇とは無関係な純粋な舞踊 <ヌリッタ> では、ムードラはただ装飾的な価値をもち、純粋な音として用いられる。クラシック・バレエと同じく、それ自体としては意味作用をもたないものである。  
ムードラを中心にしたシンボリズムは、生活のなかから生みだされた手による身振りを基層としてインド的な深遠な精神世界と密接に結びついた宗教的世界観との関連づけなしに理解することが不可能であるが、その一方でムードラはきわめて伝達的な機能、発話性を同時にもつことで、日常的な世俗的領域から非日常の神聖な領域にわたる広範な役割を果たすことができるのである。そうした点で、カタカリは手が生みだしたともいえるのである。


2-2 バリ舞踊  


インド文化圏ではムードラが純粋で精緻な表現として追求されているのに対し、同じムードラを用いていても他のアジア地域では舞踊表現の一部として組み込まれている場合が多い。しかし、手に対する重要度は変わらないものの、手が具体的な内容を指示しているわけではない点がインドとは異なる。
アジアの舞踊における手による身振りのもう一つの例として、インドネシアのバリ島で広くおこなわれている舞踊があげられる。バリ島の舞踊では、手がつくりだすダイナミズムは、クラス(keras)とマニス(manis)、すなわち手のひらや手首の「強さ」と「弱さ」によって表現される。バリ島に限らずインドネシアの他の地域やマレーシアなどを含めた東南アジア、さらに日本や中国でも、舞踊や演劇におけるすべてのかたちは、「強」と「弱」という一連の対立原理にもとづいて構成されているが、バリ舞踊ではクラスは「強い、たくましい」、マニスは「繊細な、柔らかな、やさしい」という意味をもち、この対立が交互に絶えず入れ替わることで緊張と弛緩のダイナミズムが生みだされるのである(図6)*9。また、インドネシアやマレーシアではこの対立は、カサル(kasar)とハルス(halus)とも呼ばれ、舞踊や個別的な動きで重要な原理となっている。これは外見的な特徴だけでなく、内的な存在とも深く関わり、ザイル(zahir)-明瞭な-とバティン(batin)-隠された、包まれた-という複合原理とも関連している*10。人間の身体運動は、「見えるもの」と「隠されたもの」、「内的なもの/精神的なもの」と「外的なもの/物理的なもの」という二項対立にもとづいて構成され、それらが不断の変化のなかで統合されるとき、そこには対立の調和、心身合一をみることができるとするのである。
こうした二項対立は、インドネシアやマレーシアだけではなく、アジアの舞踊に広くみられる。


図7 京劇の手振り

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図7 京劇の手振り


2-3 中国の京劇

中国の京劇では50以上の手の型を用いる。ただし、インドやバリ島とは異なり、京劇の役者は舞台上で語り歌うため、手による表現は身体の特殊な動きを示したり、せりふを強調するための補助的な役割しか与えられていない。非常に複雑な体系にもとづいているものの、手の型は身体全体で演じられる動きに包括されているのである(図7)。京劇の舞台装置は非常に簡素化されているため、演技もしたがって象徴的であるが、日常生活の仕種を多少誇張したり、擬態することからなっている。しかし、中国では「手眼、身法、歩」を演劇の基本としているが、演技の際は眼は手にしたがうとされ、身体動作のなかでも手が重視されている*11。これは先に述べたインド舞踊でも「手が赴くところに目が赴き、目が赴くところに思考が赴く」というのと同じものといえる。
また、中国の巫舞では手による身振りを手勢という。陰陽の二元的な考え方にもとづいて、左手が陰、右手を陽とし、手をかえすと陰、手を翻すと陽、手を握ると陰、手を開くと陽、手を下にすると陰、手を上にすると陽というように展開していく。古代に成立した陰陽道とそれにもとづいた道教では、こうした陰陽の原理は身体すべてにわたって用いられ、舞踊においても例外ではない。



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